99.9999%というまるで純金の純度を表わすかのようなこの数字
これらの人々には全く関係のないニッチな話かと思います。
私ときっと日本全国で数人の人しか考えたこともない事かと思います。
今現在、私は清少納言の枕草子の現代語訳を読んでいるところです。
目論見は、古文が読めて書ける事を目標にして触れているのですが・・・
私の住む近くに、下小松古墳群という数十基の土が盛り上がったような古墳が存在し
山形県で最も早くに発展した場所という事になっています。
古墳時代ですから400年頃の話です。
当時、弥生人が稲作文化によって稲を作っていて、その米を
奈良の大和王朝へと貢いでいたそうで、豪族という称号を戴き
更には、次に馬の生産も頼まれて、馬を献上して
そのお礼にと、馬の首に飾るための青銅の装飾品も
古墳の副葬品として埋められており、
どんだけリッチな人たちが居たんだよと思わせられます。
これについては、山形県立博物館に行くと見ることが出来ます。
さて、そこで問題なのですが、
江戸時代には、五街道という地図が有名ですが
それ以前は、どうやって人々は日本列島を行き来していたのか?
なかなかに疑問が沸く所です。
我が山形県には、熊野大社があり、歴史は1300年と云われています。
つまり、724年という事になります。
本家本元の熊野本宮大社は紀元前33年に創建され、その後
750年の後に、分祀という形で、山形県に持って来られた訳ですが
これは、どこを通ってきたのでしょうか?
疑問が沸く所です。
ちなみに、話は変わりますが、呪術廻戦というアニメに出てくる悪い奴
宿儺(すくな)もしくは両面宿儺という存在ですが、
これは、歴史的に記録がある名称で
日本書紀に記述があり、今で云う所の岐阜県のとある村の村長兼用心棒という立ち位置の
豪族長であり、大変頭が良く、そして武力もあり、
それを見込まれて、大和王朝の配下にならないかと誘われるも、撥ね退けて
その後、武力闘争となり得ますが、徐々に本領発揮して
まるで手が8本でもあるのではないかと思われるほどに活躍した
鬼の形相で戦ったと記されている人であり
その形容として、両面に顔を持つという字が入り、また更には宿儺の称号を得て、
両面宿儺と名付いたとあります。
当時、下小松古墳の豪族は、新潟の日本海沿いの道を糸魚川を過ぎ
白川郷を目指して南下して大和王朝を目指した最短ルート
そして、次に比較的道が分かりやすい、
福井を南下して琵琶湖東部道路付近を南下してたどり着くルート
そして、もう一つは、関東に南下してから東海道を西へと向かって奈良を目指すルート
どう考えてみても最短コースは白川郷を通るルートであり、
もしかして、その時には両面宿儺に逢っているかもしれないのでは?
と考えるだけでも胸が高鳴ります。
また、宮内の熊野大社根立する時も、やはり現実的には同様のルートで
和歌山の熊野本宮大社から伊勢路を通って岐阜を通過して日本海沿いを北上し
山形に入ったというのが私には有力に思え、
次に、道が本当に昔からあったのなら、中辺路から大阪に出て、後の東海道を通過し
湿地帯であったはずの関東平野から、後の奥州街道を北上して山形に入る
というルートもあり得るかもしれませんが
徳川家康が栃木の日光鬼怒川を進路変更して茨木に流れを変えて
関東平野を干拓して湿地から平野にするまでは、
恐らく、相当な通過困難地域であった事を鑑みれば、こちらの五街道ルートは
やはり江戸時代以降が妥当だと思われます。
そんなことで、山形県の下小松古墳や宮内熊野大社の事を考えると
昔の人は、どこを通って大和王朝へと通ったのか?が気になっていますが
その時代の地図と云うのはまだ見つかっておらず、
先日は、8世紀の木簡時代に京都府京丹後地域から九九の計算早見表が発掘された
ということを考慮すれば
どこかにそれっぽい地図があってもおかしくはないような気がしています。
ホントに、こんなことを考えている人は世の中に居ないと思いますが
1000年前の清少納言の雅な世界を読み進めていくうちに
どうしても、昔の人々は頭が良かったと思わざる負えません。
しかし・・・どうやって大和王朝と山形県の豪族が行き来していたのでしょうね?
米の奉納とか馬の奉納を考えると
当時はまだ船の大きさは小さく、
小舟で新潟から糸魚川まで海に米を積んで運んだという事は考えにくいから
そして、
きっと1年に1回、収穫直後の冬の前か?
もしくは、岐阜県の山間部の雪が解けて、
馬や荷車が歩けるくらい道が良くなってからだから、
そして、米不足に陥るであろう5月頃から7月頃にかけて
出向いたのではないだろうかと勝手に思えてしまいます。
本日は、そんなことを考えながら、枕草子を読み進めているところです。
本日もニッチな話題にお付き合いいただきましてありがとうございました。
ではまた