ロバートキャンベルさんの言葉に耳を傾ける | 独学の道Ⅲ

独学の道Ⅲ

自分で自分を変えることは、到底無理なことかもしれないが、それに望む気持ちの自力論は高尚で偉大である。
仮にその結果が甚だ振るわなかったとしてもだ。
By幸田露伴(努力論より)

右矢印日本人はなぜ古文を読めなくなったのか?左矢印クリック

 

確かに、私の尊敬する明治の文豪である幸田露伴の原文小説でも同様に、

 

非常に読みづらく、なるべく現代語訳になっている再版小説を手にしたりする私な訳ですが

笑い泣き

 

一つには、教育勅語という歴史上の存在も、

 

古文を読むにあたっての一つの障壁であるように思いますし

 

江戸時代の執筆家の挑戦による統一感の無さや

 

武家と庶民言葉の二つが存在する事もまた一つの障壁かもしれません。

 

 

現在の日本語は、昭和中期の「ゐ」「ゑ」「を」再編以前の文章の表現の多様性が削ぎ落され

 

い・え・おに収束され、更には

 

逆にレトリック手法が台頭する西洋表現が取り入れられて補完され

 

日本語の言葉にした時の美しさよりも、解釈の楽しさに切り替わってきたことによって

 

古文表現が切り捨てられて来たように私は思います。

 

 

古文の表現の醍醐味は、何と云っても単語の短さにあり

 

短いが故に、受け取った人の力量によって解釈の度合いが変わるが故に

 

理解をする為に勉強をして知力を高めようとした過去の

 

言葉遊びのWIN-WIN関係もしくは、スパイラル向上関係が成立したように思います。

 

 

 

近代の直近現在では、「説明責任」という言葉があるように、

 

受け取った誰しもが理解できるようにと

 

語彙力や表現力よりも、なるべく簡単に簡潔に相手に伝達する事を求められるが故に

 

聞き取った人に差異が生じないような情報伝達方法がベストな思考とされており

 

相手の理解力を問わない時代になっているように思います。

 

ある意味では年齢に関係なく理解をしてもらえるようにとの配慮なのかもしれません。

 

それでも理解が出来ないのであれば、まるで発達障害であるかのように思われつつあり

 

それでも通じるようにと、日本語と云うのは、

 

益々英語のように語彙が単語化しているように思います。

 

漢字の意味に於いても同様に、甲骨文字時代から金文時代から篆書へと

 

理解から書き方への変更と意味の整合が行われ、それと共に意味が変化してきている部分は

 

古文の受け取り方の「をかし」 → 楽しい → 異常

 

への受け取り方の変換と同様です。

 

キャンベルさんが、記事の途中で、幸田露伴の娘である

 

幸田文さんの「台所のおと」という書籍を引用していますが

 

 

幸田文さんの功績は、おやじの露伴が築いた文学的表現を真似することではなく

 

全く違う切り口で、古文の枕草子のような日本語の美しさを模写するかの如く

 

 

 

さまざまな見えない日常のちょっとしたことに意識を払って

 

それを文章化して書籍にしている点にあります。

 

 

随筆などではない印象で、文さんの書籍を読み進めていくうちに、

 

目の前にいるような親近感を覚え

 

その身近な気づきの連続する日本語のシャワーを浴びて、

 

西洋化されてなんだか装飾され、また古びてきた心と、その考え方が見事にイオン洗剤で洗い流されて

 

無垢だったはずのブナの森に暮らしてきた、悠久の縄文人からの系譜である

 

日本人のアイデンティティーが顕れるように感じられるから、

 

幸田文さんが有名になったのだと思います。

 

話題転換しますが・・・

 

私は、最近になって、「どうぞ楽しんでいってください」

 

という言葉に疑問を感じます。

 

 

それは、あなたの押し付けじゃアーりませんか?

 

そのように言葉で誘導されると、そうしなければならないように感じてしまうのは

 

私だけなのでしょうか?

 

 

それとも、おもてなしの言葉の代表文句なのでしょうか?

 

 

では、ごゆっくりとか、

 

近くにおりますので、何かございましたらお呼びください。

 

とか

 

もう少し、その状況に合わせた適切な言葉ってあるでしょう?

 

って思うのですが

 

杓子定規に、誰しもが「お楽しみください」という言葉遣いが

 

まるで私には、忙しいのでこれで失礼いたしますと云わんばかりの

 

セルフ放置プレイの現代を表しているように思えてしまいます。

 

そんなことをイチイチ気にしているというのは、

 

ハッキリ言って、みみっちい男かもしれません。

 

そして、これは本当に重箱の隅をつついたような個人的な意見ではありますが、

 

日本国に代々暮らす縄文弥生の英知が交じり合って出来た日本人という血統と

 

悠久に育んだマイノリティー文化を継承していくには

 

マイナンバーカードに代表されるように簡便・簡素化という

 

世界スタンダードに合わせて多様性社会に融合させていく為には

 

そのような削ぎ落し作業も必要なのかもしれませんが、

 

それと相反する思考かもしれませんが、

 

日本人の過去そのものを他人の解釈無しに理解出来得る能力も

 

必要で、それについては、削ぎ落してはいけないように思います。

 

 

どうしたら、古文を理解できるようになるのか?

 

今からまた改めて再挑戦して勉強してみたいと思います。

 

 

アラカンになると覚えた矢先から単語を忘れてしまっていくから本当に困ったものです。

 

 

今日は、午後から新潟県の三面にある縄文土器の資料館に行ってきました。

 

左側の地名は、集落を示しており、最古は25,000年前から縄文人が暮らしていた事を表わします

 

6,000年前には集落は各地に点在して、熊を捕ったり、カモシカなどを捕ったり

 

栗や木の実を採集して、縄文土器で灰汁を抜くために加熱調理して食べたりしていたそうです。

 

その後、弥生時代には稲作文化の関係で、山から平地に居住場所を変えて

 

三面からは暮らしの跡が無くなったそうですが

 

山形県の小国町と30Kmしか離れておらず、交流があり、また道もあったとのことでした。

 

池や川などでの採集や交通の為に、木をくり抜いて舟を作ったとされていますが

 

このように小さく、人が乗るだけで精一杯であり、

 

米などの物資を運ぶのには適してないことが分かりました。

 

また、私の住む地域の縄文人との交流も、勾玉や黒曜石などの石が流通していることを鑑みると

 

縄文時代には、ある程度、集落同士での交流や貿易などがあった事も考えると

 

やはり、道が縄文時代からあったのだと確信させられるのでした。

 

企画展で面白いことをやっていました。

 

「転載」

こんなものを見学してきました。

 

 

そういえば

 

昨日、書いた記事に、 Anno Domini (AD)450年頃の下小松古墳の豪族の話を出しましたが

 

今回訪れた Before Common (DC)25,000年からの縄文人の交流の歴史を鑑みてみると

 

確実に山形県から新潟県までの道は存在していた。

 

と言わざる負えません。

 

本当か?と疑ってしまいますので

 

今度は、違う角度からも検証してみたいと思います。

 

というのは、弥生人の暮らしを調べてみようかと思うのです。

 

近くでは新潟市にある

 

史跡古津八幡山弥生の丘展示館

を訪ねてみようかと思っています。グッ

 

 

ホント好奇心の塊であるアラカンは、頭大丈夫か?滝汗

 

と云われそうですが、なにとぞ笑いながら、お見守りくださいませ。

ウインク


という事で、いろいろと今日も語らせていただきました。お願い

 

本日も最後までご覧いただきましてありがとうございました。バイバイ