今って2024年ですよね | 独学の道Ⅲ

独学の道Ⅲ

自分で自分を変えることは、到底無理なことかもしれないが、それに望む気持ちの自力論は高尚で偉大である。
仮にその結果が甚だ振るわなかったとしてもだ。
By幸田露伴(努力論より)

私の脳時計は、パラレルワールドという並行世界と

 

パラドックスな視点になっている錯覚に今・・・陥っています。

 

???

 

はて?

 

この人は何を言っているのか?

 

頭大丈夫か?

 

と云った一文でしょう。

 

 

まぁ~通常運転ですから、いつもご覧の皆様に驚きはないはずです。

 

初めて、このタイトルを見てご覧の皆様には、軽度認知機能障害でもあるのではないだろうか?と

 

疑いを掛けられてしまいそうです。

 

もしかして・・・一日も休むことなく続けている習慣の

 

アルコール性のそれが始まってきているのかもしれません。

 

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さて、何を云わんとしているのか?

 

それは、「悔しさの余りに本を買って紛らわしたよ」

 

という事です。

 

 

何が悔しいかと云えば、テレビ番組で芸術分野の番組を自動セレクトしているのですが

 

ちょうど、農家の忙しい時期に限って、東京のアーティゾン美術館において

 

ブランクーシ展をやっていて、

 

 

ちょうどサクランボの花粉交配から管理、販売、そして撤収時期などで

 

人を頼んで作業するほど忙しくて、

 

絶対に行けないだろう期間のイベントでした。

 

くっそー悔しいぜ

 

と思いながら、・・・がしかし。

 

これら作品は、あくまでも過去のもの(1876-1957)の再現であり、

 

急いで新幹線代を払ってまで行かなくても

 

写真集などで作品を見ることが出来るんじゃねー!?と思って

 

アマゾンで調べてみました。

爆笑

 

当然、今の人ではないので、新発売などの書籍販売はしていませんので、

 

過去の中古品を探してみます。

 

結果、ようやく1986年発行の中原祐介さんの本を発見しました。グッ

 

 

 

現在、これを注文して、本日到着予定なので、待っているところです。

 

 

ここ最近、東京の美術館群は、何かと私の心にズキューンと射貫くテーマを持ってきて

 

本当に魅力的で、目が離せません。

 

昨年は、アーティゾン美術館でジョン・マーティンのコレクションハイライトをやっていて

 

それも行けなかったので、やっぱり作品集本を買ってしまいました。

 

 

 

開いて見たらハッキリ言って最高でした。

 

こりゃ誰もが美術館に行って見ようと思うよなと1854年から

 

200年近くも経とうとする2024年の今でも

 

以前の魅力が色褪せることがありません。

 

 

そして、なかなかに、アーティゾン美術館は魅力的なものを選んでくれていますよね。

 

 

 

また、今月、上の森美術館では石川九楊大全展をやっていて

 

 

これも、行けそうもないので、致し方なく、

 

 

 

 

書籍を注文して、本日ちょうど今さっき届いて開いて見ている所です。

 

 

ページ数も結構あって、見ごたえが十分な一冊で、本当に満足しました。

 

 

また、書と絵と説明文章がどれも、芸術的で、絵画以外にも芸術の分野があるんだと

 

目からウロコが落ちたような印象を受けています。

 

また、書の表現が、映画「メッセージ」に被るかのような錯覚を感じています。

 

 

 

芸術という分野は、写真が発明されてから、写実的表現は

 

フィルム撮影や切り取り方、そして印刷表現に任せて

 

写実主義は写真アートという分野へ広がりを見せていき、

 

また、絵画などの人間が描く・書く分野においては、

 

抽象的表現へと流れが変わり、そしてそれも、ダリに表されるように、

 

哲学的・思想的な広がりを見せています。

 

 

特に、コレ!

 

というものでなくとも、その人にとっての霊的インスピレーションが高まるものが

 

一種の芸術的刺激であり、人はこれが不足している人には魅力が全くありません。

 

 

いくら、言葉巧みに語ったとしても、結局、それは、誰かの受け売りであって

 

本人の心の言葉ではありません。

 

魅力的な人には、必ず背景になる絶対のものがある訳ですが

 

芸術的視点や思考は、

 

その背景を吸収するスポンジを無限に広げてくれる可能性を提供してくれます。

 

 

勉強に行き詰まるのは、結局誰かのそれを完璧に覚えようとして、しかしながら

 

果たしてそれが自分にとって正しいのだろうか、

 

果たして受験が成功しなかったらこの努力は無駄になるのではないだろうか?

 

などという、正しい方向だと思っているが、そのやり方は正しいのだろうか?

 

というパラドックスという疑問を持つから

 

急に吸収力を失ってしまい、いっぱいになってしまい

 

またキャパシティーが狭く小さくなり、

 

つまづき、そしてうつ病などの病気を引き起こしてしまうと

 

私は思うのです。

 

しかし、そのパラドックスを解消する方法として、

 

芸術というインスピレーションを想起させる視点というのは

 

成熟しようとする人間にとって非常に必要不可欠な要素ではないだろうかと

 

アラカンの最近になって、ようやく思えるようになってきています。

 

 

左脳思考で・・・結論を早急に導くことを訓練してきた現代社会の中心の人々は

 

そこで老いていく毎に迷いの道に入ろうとして、不安が増え、

 

それを払拭するかのように、仕事にのめり込もうとするように思えて見えます。

 

 

しかし、右脳思考を豊かにすることによって

 

結果ではなく、そのプロセスが非常に重要なことに気が付いた時に

 

時間があることに喜びを感じ、ゆっくりと咀嚼できることに楽しみを覚えるように思い

 

 

老いという時間の経過が、幸せに変わっていくように思うのです。

 

 

人との会話の中で、ダジャレを言ってみたり

 

逆説的暴言で笑わせてみたり、

 

そういった、言葉の駆け引きを楽しみながら答えのない会話と云うのもの楽しむことは

 

幼少期の若い時には自然に出来ていたはずなのに、

 

だがしかし、学校教育に組み入れられ、その中で

 

必ず、問題を解き、正しい一つの答えを要求され続け、

 

家族には通知表という客観的結果を要求され

 

学歴、そして有名企業などへの就職によって、その人の価値が押印され

 

それに準じた年収をもらって生活し、それが故に

 

無駄なことをなるべく排除しようとして、貯金をしてきた社会生活を

 

いつかは老いの為、もしくは病気療養の為に、離れなければなりません。

 

 

そんな時、人生に意味を見出すには、どれだけ金を稼いだか?とか

 

有名大学を出たとかではなく、

 

人とのコミニケーションにおいて、ユーモアを持ちながら

 

誰とでも柔軟にかつ円滑に行動が出来て、

 

そしてみんなと楽しむことが出来るという事ではないかと思うのです。

 

 

そういう意味で、女子会とか言いながら、集まる老齢女性たちは

 

まさに老いの鏡と云えるかもしれません。

 

また、登山メンバーで、バカなことを言いながら・・・笑いながら登山をすることも、

 

その良い機会なのかもしれません。

 

 

今日は、石川九楊の大全の中に書いてある。

 

 

言葉は雨のように降り注いだ

 

 

というように、皆さんに文字を降り注がせて、終わらせたいと思います。

 

 

本日も、ただ単に、本を何冊か買ったよ笑い泣き

 

 

という報告に最後までお付き合いいただきましてありがとうございました。

 

 

それではまたバイバイ