また・・また・・・また・・
今日も人類永遠のテーマについて思考を巡らせています
おいおい
俺ホント語っちゃって・・・大丈夫か?
では、語りますね
ホント・・・暇人・・・トホホ
さて、朝飯を食っている時に・・・、ですが
なぜ飯を食うのか?
腹が減るのだろうか?
と思いつつ、炊飯器からコメをご飯茶碗によそっていると
目の前に細胞が表れてきました。
と同時にアポトーシスするビジョンも浮かび上がりました。
どんな思考回路をしているんだ俺は!?
アルコール性の幻覚が早くも訪れてしまったか?
と思いつつも、どうせ暇だからと・・・
その思考の流れに流されてみることにしました。
紅鮭を箸でつき崩し、口に運びながら、どこから見たのか分かりませんが
細胞が貪食して栄養を吸収するイメージで、細胞分裂し増殖。
もぐもぐ、
安っすいだろう・・・と思われる一袋10円か?
もしくは高級セブンイレブンの30円もやしか分かりませんが
もやしの1円みそ汁をすすりながら、
今度は細胞がアポトーシスという
弾けて自死するイメージ
野菜の煮物を橋でつまみながら口に運び、
羊水に育まれる胎児が、生きようとして数か月単位で身体のパーツが出来上がっていく様子
専門家じゃないから・・・あくまでもアニメのイメージで・・・
たくあんを摘まんでガリガリと音を立てて食べていると
胎児が突然に身体パーツの分裂増殖することをやめて、死産になる様子など
食べながら、イメージするようなことではありませんが
今朝は何故だか麻薬でもやっているんじゃないだろうか?と云わんばかりに
そういったイメージが走馬灯のようによぎり、一種の何かの啓示か?
と思うほどでした。
仕方がないので、ブログを書くネタにしてみようかと思って
今現在、書いているところです。
細胞は無条件に生きようとします。
それが故に増殖し、器官をもち、担当部署に分けて、より強い何かのものへと
発達・発展してまで潜在的に生き残ろうとしています。
そうやって我々はこの世にオギャーやっと息が吸えたぜ!?
かどうかは分かりませんが、産声を上げて誕生する訳ですが
条件さえ良ければ、精神的に苦しむことはなく病死という最後が訪れるまでは
楽しく生き続けることが出来る訳ですが、
・・・人類には試練がいくつも用意され
それは食べるものを・・・だけでなく、
より生存環境を良くするための衣食住を求めるようなり
その後は暮らしを良くするために、自動車、宝石、財産を肥やすことによって
心の余裕が生まれてきて、ゆとりを感じることが出来るようになります。
この満足する閾値のレベルをどこに置くかによって、
精神的豊かさが変わってくるように思います。
人が自殺しようと考えるタイミングは、身体的理由などではなく、
完全に精神的にだと思われるのです。
何故なら、細胞という肉体の最小単位でさえ、
生きたいが為にDNAの終末端子が訪れアポトーシス・スイッチが入るまで
再生と増殖を続けているからです。
では、精神的アポトーシス・スイッチとは、何がトリガーになるのでしょうか?
羊水中に居る胎児の死産例では、遺伝子レベルで
人として生まれても生きられないことが事前に分かっている場合には、
DNAレベルで細胞自身が増殖をやめざる負えなくなります。
その後生まれても、食事の中に化学物質である人工添加物が多く含まれる経口食によって
細胞は壊されて、修復過程で異常な反応が発生し、免疫疾患が発症してしまい
または白血病などの癌細胞状態になってしまい、細胞単位で生きられなくなってしまいます。
そんな肉体的生存の厳しい振るい現象もしくはルーレット選択
もしくは人口動態ピラミッドのような現実に掛けられ続けながらでも、
肉体的には生きようと心がけています。
精神的に死を希望する場合、それはつまり、学習不足によって
困難の乗り越え方を知らないとき
つまりそれは、認知機能の低下や境界知能などを含む受容能力の欠如も意味し
相手がニコニコとして自分を見ている時に、
相手は俺を馬鹿にしてみていると勘違いして感じ取る能力などの感じ方が低下しているとき
そして
自分の未来に絶望したとき
孤独と孤立化によって、意味を見出せなくなってしまったとき
自分の肉体的死亡が専門家によって宣告され、残された時間は苦しみしかないことを知ったとき
借金という重荷に視野が追いやられ、そしてそれからの逃れ方を知らずに、
見えない借金という不安から逃げられず押し潰されたとき
そのような時に、どのようにその事実を受け止めて、乗り越えていくのか?
正しくなど乗り越えなくても、宗教によってバイアスがかかった乗り越え方でも良い
乗り越えられる事、過去のことにできることが精神的に生き続けることを選び
それが出来なければ、またはやろうとしなければ、
生き残ることは選べないという事になるのだと思います。
生命というのは、生き残ることを前提に設計されているものを
総称して呼称するように思います。
死とは反対に、そのプロセスを何らかの理由によって中断して
若者が、簡単に「詰んだ~」「死んだ~」「終わった~」という語彙は
副詞としての言葉遣いとして標準化していますが、あながち間違った使い方ではない気がします。
死は2度訪れると言います。
一度目は肉体的な腐敗へと向かう死、二度目は人々の記憶からの抹消された時の死であるというように
精神的死んだという状況から肉体的死というところまでは、大変な幅があるような気がします。
しかし、この距離感は非常に大きいものがあって
精神的に終わったという状況であっても、まだ生きていることには違いがありません。
これも、冒頭の閾値の問題でもあるような気がしています。
最後まであきらめない人を閾値の高い人と呼び
終わったーと簡単に諦める人を閾値の低い人と呼べるかもしれません。
今考えてみると、死とは、本当に遠いものだと思います。
いくら酒を浴び続けるほど飲み続けても、煙草をバンバン吸い続けても
それで肝臓が悪くなっても、その喫煙の結果的に肺がんになったとしても
まだ生き続けています。
人は見えなかった死という存在が、病気をすることによって目の前にあることを知ったというだけで
恐れおののき、慌てふためき、パニックとなり気が動転し
生き急ぎ始めるのです。
死という存在を知らなければ、相も変わらず呑気に暮らして、ある日ぽっくりを迎えるでしょう。
にも関わらず、病気を知った途端に先の死を見つめ始め、
まるでそれを自分に引き寄せるような思い方や生き方を始めてしまうのです。
わざわざ精神的な閾値を低くして、怖がる必要はありません。
何も恐れる必要なんてないんです。
死をメディアによって洗脳プロバガンダされているだけなんです。
後進国のように検査をせず、病名を知ることもなく生きていれば、
怖いことなんてないはずで
死ぬ直前まで、精神的閾値を高く保ちつつ穏やかに暮らし続けることが出来ます。
また先進国では
癌の早期発見、検査と告知が一般化して、これも本来は恐くないことです。
完全寛解はしませんが残された命はまだまだあります。
生存率も長くなってきましたので安心してくださいと本当は伝えたかったのに
医師の誰もが誤解して、生存率の為に、完全寛解を目指しましょうと言い
患者に「希望の生」を医療教育し、それが正解であるかのように押し付けるのです。
癌には、昔と違って、汚染トリチウム型、放射線検査被ばく型、細胞劣化テロメア型、
人工添加物や重金属摂取による内臓蓄積侵害型など、
これら造語は全て私のイメージです。
それらのいくつかのタイプがあるにも関わらず、
一概に「厚生労働省の定義する医療倫理」を押し付けてくる概念には
どうも私は納得が出来ません。
本来の死は、細胞レベルが決めることです。
体毛で云うと、赤ちゃんの時には身体から油脂分泌によってつるつるしており
硬いものにぶつかっても皮膚が傷つきにくいようになっています。
次第に油脂分泌が減少し、産毛が生え始め、そして思春期には体毛も濃く強くなり
皮膚が怪我しにくいようになります。
白髪になる頃には、細胞分裂が遅くなり、その分、黒い毛よりも硬い、
そして、黒毛よりも数の少ない、メラニン色素欠乏の白髪になって体皮を守ります。
いよいよ以て、白い硬い毛も生えることが出来ないほど栄養失調の肉体になってきた時には
体脂肪も不足し、皮膚は緩み皴となってまで、
外からの衝撃を受けても皮下組織が傷つかないように設計してあります。
人間の体(哺乳類)は、とことんまで生きることに特化した仕様設計になっています。
癌細胞も同様で、トカゲなどの尻尾を切って逃げる生き物はがん細胞と共存し
尻尾が切れてもがん細胞によってまた生えてきます。
しかし、癌細胞があるとその効果と弊害から
寿命的には長生きが出来ないようにDNAの仕様設計がされています。
哺乳類は、手足が切れたら生えてはきませんが、それでも長生き出来るように設計されています。
つまり、癌細胞は生命に元々から備わっている生存オプション機能の一つであり
癌を絶対に撲滅など出来ないのです。
(但し、今はそれを敢えて切り落とすことによって、
生存率を上げているのが医療行為になっています。
早く、チェックポイント阻害剤が保険適用になり
薬を飲んで癌が治る時代になって欲しいものですね)
癌細胞の発生は、延命装置のスイッチが働き始めた証明と証拠なのです。
が故に、爬虫類のように癌細胞が発見されたという事は
いろんなところが癌細胞のおかげで置き換わり延命措置がされて、命が助かっており、
その代わりに、残りの寿命というカウントダウンが始まったという事でもあります。
もともと人は生まれた時から死ぬことが分かっている存在であるにも関わらず
死なないことを前提に生きているから、死が目の前に見えた時に慌てふためく訳です。
どうやって楽しく生きることが出来るのか?
むしろ癌になれば、先は見え始めているのだから、
忌避せずに喜ばなくてはならないのではないでしょうか?
それをしようとしない、逃避し続け、それが認知出来ない心の準備が、
精神的閾値を低くしているように思います。
これからは、そういったことを踏まえて
精神的閾値を高くして生きることが出来るようにしていきたいものだと私は思います。
また今日もめんどいことを書いてしまって申し訳ありませんが
朝から目の前に様々なビジョンが見えてきて、書かずにはいられませんでした。
兼業農家の独り言ですので、あまり参考にされないで下さい。
ただ単に私がそう思っているというだけの話です。
最後までご覧いただきましてありがとうございました。