久々に吉本隆明さんの「ほんとうの考え、うその考え」を再読しています。
主人公は、宮沢賢治さんやら親鸞聖人やら、日蓮上人さんの法華経などが出てきます。
過去の偉人達は、ほんとうの考え方とは
自分自身が悟る事を目標とする事がほんとうであるとか
究極の悟りへの道を切り開いていく事こそがほんとうであるとか
又は、自分の悟りではなく、他人を導ける教えそのものこそが本当であるとか
生き方の過去こそがほんとうであるなどと
ほんとうを探してきた歴史があると書いています。
また同様に、私もほんとうの考えとは何なのだろうか?
といつも自問自答しながら生きている所は
過去の偉人たちに、少しは思考が被るのかもしれません。
と美化。
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また、ある人は言います。
人間のほんとうとは、自分が正しいという事を貫くのではなく、
例え自分としては、大凡正しい事とは思えなくても、
大衆に寄り添って、人の流れに乗って、流されて生きていく事が
人間として、ほんとうの生き方であるとも云います。
現在でも、日本は社会主義化していると昨日の記事でも書きましたが
私には流されて生きる事こそがほんとうの生き方なのかもしれない
とも思えてしまいます。
そんなあまたに存在する中で、
ほんとうとは、
どこにあるのでしょうか?
鳥は季節になると渡りを始めます。
それは、春と秋に行われる餌を探し求め、命を紡ぎ、生きる為の習性行動です。
人間が生きる為には、季節の変化、時代の変化、状況の変化に合わせて
探し求める行動変容と思考の変容が必要なのかもしれません。
白鳥やオオヒシクイ、鴨などは、
先頭の一羽に合わせるかのように、付いていきます。
しかし、一直性に縦に横に並ぶのではなく、扇状に広がるように並んで飛行し
渡りを行います。
空気抵抗の関係もあるかもしれません。
また、集団によって大きな鳥の形として見せているのかもしれません。
理由は分かりませんが
しかし、確かな事は、
リーダーの後を追っかけていくという信じる心があるという事です。
ほんとうかどうかもわからないことに対して信じている信者の鳥たちが居ます。
そして、一羽だけは、自分のほんとうを信じて飛び立っています。
この行動にも、ほんとうが二つ隠されている事実があります。
ほんとうは、実は一つではなく、いくつもが存在することに気がつく訳です。
人間の世界に置き換えて考えてみますと
政治にも共産党、立憲、維新の会、れいわ、NHK党、
自民党の中でも○○会と云うように
自分のほんとうを実現する為に、もっとも近しい仲間達と寄り添って動き
まるでそれは、渡り鳥の編隊飛行かのようにも被って思えてしまいます。
行き先、行くタイミングは違えども、目的地は大凡一緒。
現在、二会派、安倍派、岸田派・・・などがあって組織解体するのか?
そして、政策集団は残すのか?などで揉めておりますが
政治家のほんとうはどこにあるのでしょう?
いや、どこに帰着点を見出すのでしょうか?
ほんとうを探して、風呂敷を広げていくうちに
非常に厄介となり、難しい概念になってきてしまいした。
いや、あえて難しくしているのかもしれません。
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難しい政治の話は、横に置いておいて
昨日のアメバブログのトピックスに、
「離婚を頼まれた」という内容を目にしました。
はて?・・・・どういう事だろうか?
読み進めていくと、概要はこうです。
結婚して6年目の20代夫婦でまだ子供はいない。
しかし、夫が離婚を求めてきたそうなのだ。
理由は、不倫している彼女の子供が自分の子供だったという事で
既に相手は離婚しているから、こちらの夫婦関係を終わらせて、
父親になって欲しいというものだそうだ。
夫にとっては、子供優先なのだろうから、結婚関係を終わらせて、
子供の父親になることがほんとうかもしれないが
いままでの結婚して生活してきた6年間は何だったのだろうか
という全否定にも近い感情が発生してしまう。
今までの6年間はウソだったのか?
ほんとうだと信じていたはずなのに・・・・
ましてや慰謝料をふんだくろうとも、
相手には子供があって子供の養育費がかかってしまうから
それほどの非現実的慰謝料を求めることも出来ない。
全くの糞男なのだが、果たして男に頼まれた離婚届は書いてくれるのだろうか?
という内容のものだった。
これも、非常に悩ましい人間関係であり、本当だったことが嘘であり
こそこそと不倫していたウソの感情が、
子供が育ったことによってほんとうに挿げ代わってしまったのだ。
結構、人って自分が正しい、絶対正義だと思って話している事が多いと思います。
しかし、実際には各々に正義を主張するだけの背景が存在していて、
見る角度によっては間違ったことは言っていないとも云える訳です。
どの角度からそれを見るかによる本当が、二次元表現でも全方位的に360個存在し
宇宙表現で云えば、一度を更に60分に分けることができ、
またその1分を60秒に分ける事が出来る訳ですから
3次元空間に置き換えて考えてみますと
ほんとうという考え方というものは、
限りなく無限に存在すると云っても過言ではないのかもしれません。
しかしながら、そう云ってしまうと元も子も無くなってしまうので
統計学的、最大多数の最頻値的表現が社会通念上のほんとう
という事になるのかもしれません。
ほんとうの本質を探してしていたはずなのに・・・
結局、何?この流れ
拡散し過ぎて、分かんなくなっただけ?
ほんとうは、実はほんとうにいっぱいある?
ほんとうはほんとうではなかった?
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ほんとうってほんとうに難しいものですね。
テヘペロ
親父ギャグであいすみません。
また、欧米ではほんとうの本質の判別がつかず、
フェイクという表現をしたり、データの正確性、情報の安全性
つじつまの整合性まで見る社会になってきています。
AIが情報生成する社会になってきており、もっともらしい表現
本物っぽい描写などが増えてくるかと思います。
そんな中で、ほんとうという価値観、概念、考え、軸を決め
間違った考えという価値観、理論、主張、背景を理解することに努めて
見極める目を養っていくという事が、
今後、人間社会のみならずAI社会というグローバルネット社会に於いて
必須項目であるように思うのです。
今日も、また難しい思考のループの罠にはまっております。
一体いつ頃、この中二病的思考を抜け出すことができるのでしょうか?
ホント、こんな虚学的な事ばかりを考えてなど居ずに
ちゃんと本業の仕事しろよ!
って自分に言いたいです
現在のリアルなホント
草 草 草
本日もつまらない記事をご覧いただきまして誠にありがとうございました。