ビジョン
それは、心に思い描く理想の姿。
それを実現しようと人は生きている。
例えば建築家が心に描く理想の建築物があるとして、それは実用的ではないかもしれない
しかし、どうにかしてそれを、いつか実現できないかと心に抱きながらチャンスを待つでしょう。
あるいは、岡本太郎のような芸術家であるならば、何とかして形あるものにしようとするかもしれない。
しかし、それが形にできない時、満足がいった心に描くビジョンと同一ではない場合
また、理想の完璧の姿を求めて、それに心は向かっていく事でしょう。
幸せの形や夫婦の在り方など、何が理想的で、何を求めているのかは個人にしか分かり得ないからこそ
ツインレイという理想のあるべき言葉が生まれてきたのかもしれません。
人は個人の欲の為に求めるなら、
それはつまりマクドナルドを食べてゴミを車から車外に捨てることを意味し、
他人という事までも考え得るなら、ゴミはゴミ箱に捨てるでしょう。
またそれを拡大解釈し、地球という共同住居を考えてみた時に、プラスチックを燃やして
大気汚染をすることは、他国の人々の肺を犯すかもしれないから、
紙製品を燃やさずに微生物分解して土に戻すことが、ガイア思想的ビジョン概念かもしれません。
そのあるべき姿を目指して、現在SDGsという概念が生み出され、またそれを実践するが為に、
ESGやGSGなどの社会的取り組みを行い、
ガイアを救済し、ひいては子々孫々の暮らしを守ろうとするビジョンが世界中で働いています。
しかし、それは正論かもしれないけれども、上手くいかない事にはいくつか問題があると思うのです。
それは、いま表したように、
個 → 他人 → 他国の人々 → 世界中 → 子々孫々
という流れの中で
まずは個が満たされない限りは、他人を幸せにしようとかとは思えないはずなのです。
自分が何をやりたいのか?
自分が持っているビジョンとは何か?
それは弁財天にあると思います。
工工工エエエエエエェェェェェェ(゚Д゚)ェェェェェェエエエエエエ工工工
弁財天とは財力・・・つまりお金に恵まれることを想像しやすいですが、
奈良 天河神社の宮司に言わせると、それは心であり、
それは水の心がわかることだと言うのです。
水の心がわかることで智恵を授かり、また同時に芸術的想像力も湧いてくる。
その三味一体によって、世の中を潤していくという、
この三つの輪(五十鈴[いすず]、魂の結び)が巡ることによって
自ずと弁財天への理解が深まり、また心の平和が理解出来ていくというのだそうです。
現在、人は豊かになった人から、逆行するように、芸術に造詣が深くなり、
次に知識ではなく、知恵というものが何だか分かるようになっていくと
次に水の心が分かるようになって行く。
悪い事じゃないけれど、出来れば水の心から分かるようになればいいんじゃないかぁ~
と云っています。
無理に何かをしようとかではなくて、
まずは川の流れを見つめ、その水から様々なインスピレーションを沸き立たせ
物事を様々な目線で見つめる事が今求められているのかもしれません。
川はいつも流れ、止まる事を知らずいつもここに居ます、そこにあります。
流れや勢いを変えながら、同じ表情が無く、時間と共に未来予測することも出来ずに
今この瞬間も流れ続けています。
大雨をニュースであたかも災害の前頂のように報じて危機を煽っている昨今ではありますが
雨は、農業に於いては恵みの穀雨でもあり、またその水の力は
時によって災害級の土砂災害をもたらす事もありますが、
水の力によって山から剥がれたその土砂は、
平地に於る広大な三角州を作り上げ、肥沃な大地を作ることも忘れてはなりません。
災害と捉えるか、天の恵みと捉えるかの違いですが、そんな人間側の都合ではなくて
自然側の都合に合わせていく、人間の営みもまた自然の一部であり、
川の流れと同様に変化していくものだという自覚をもって、
寛容になっていられる時代でいつまでもあり続けて欲しいものだとも思うのです。
今現代人は、自然の営みを見つめる目線が不足していると思います。
だから故なのか登山ブームで山という奥深い自然に触れようと人はするのかもしれないし、
その結果として遭難してしまうニュースを目にしてしまうのかもしれませんが、
一番大切なのは、どこまでも探検して奥深く迄立ち入る事ではなく
身近な自然でも、自分の心を開き、自然の小さな営みを受け入れる
心のありようではないでしょうか?
そうすれば、身近な自然で充分に満足できる、個の満足が成し得る様な気がするのです。
いや、山に奥深く入ることは、違う目線での意味では自分を深く知る意味でも挑戦なのかもしれません。
未来記事である日曜日の記事で、私もそれを表現しています。
また
世界の名だたる高峰を無酸素で登頂したラインホルト・メスナーは言います、
スピリッツ、ボディー、マインドによって成り立っているが
いくらスピリッツやマインドが高くてもボディーが弱ければ、
その弱さに基準を合わせて生きていかなくてはならない、
だからどれも高い水準を保たなければならないのだと。
そういう意味では、どれだけ自分が自然の奥深い懐に立ち入って戻ってこれるかを
知りたいという欲求がそういう行動を見せるのかもしれません。
またそれも個という満足を成し得る為の行為なのかもしれないのです。
そんな風に、今日はビジョンについて考えてみました。
本日もアラカンのたわ言にお付き合いいただきましてありがとうございました