人は未熟が故にエネルギーが湧いてくる
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はい!また今日もぶっ飛んだ思想から始まりました。
それともプラトーになっているのでしょうか?
ハイその感性が既に意味不明
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生まれてきて赤ちゃんが泣くのは、欲求の現われであり
何かを欲しがっている訳です。
例えば、腹が減った・・・
寂しいから肌のぬくもりが欲しい・・・
排せつ後に冷たくて気持ち悪い・・・とか
何らかの欲求が・・・泣くという現象になり、
我々はそれを赤ちゃんの会話というように誤解釈して受け取ってしまっていますが、
なにせ、まだ言葉を知らないのだから
会話など成立するはずもなく、ただ本能に任せた表現であることを冷静に見れば分かる訳です。
そして、腹が減った状態が満たされた時、同時に欲求は満たされて安心を覚え
顔からは皺くちゃが消え
すべすべなかわいい顔を見る事が出来ると、母親は安心して笑みがこぼれていく。
いつしか目が見えるようになってきた赤ちゃんは、その母親のにこやかな表情と優しい言葉に
次第に泣くだけでなく、嬉しさを享受して共に喜び合えるように成長していく。
その今まで2種類に分類されていた感情の表現が、次第に自分の思うようにいかなくなると
怒りの感情を引き起こし、それが満たされると怒り泣き疲れて眠る様になり、
益々喜怒哀楽の感情を豊かにしていく。
その基本形は大人になった今でも誰しもが忘れ得ず、
千差万別の家庭や、時代、そして教育の中で
もっとも適切な形で変形し社会生活を営むようになって行く。
その中で、欲求不満が変態化し、依存症を生んだり、自暴自棄を作ってみたり、
多幸症のようにバイアス思考を形成してみたりと・・・・
多種多様な変容を示していくのが動物の基本に存在する怒りのエネルギーの
源泉でもある気がします。
怒りとは、鬼滅の刃の「炎の型」や「火の型」ではありませんが、
同じ物体を表せども役割が違ってくるのと同様に、
欲求不満から現れる怒りは、求めているものが与えられないときに感じる怒りのエネルギーであり、
また怒りとは、自分が思い描く未来と異なった形を見ている時に
それに対して違うという意思表示に於いて怒りがエネルギーの原動力となって、
未来を自分の思い描くようにと変更する努力の源がそれかもしれないと思うのです。
人は、行動を起こす際に、何かの心のエネルギーが発動しなければ、
体力があったからとて最後まで成し遂げられません。
アラカンになってくると諦めも半分入ってきます。
もうこれ以上、努力したとて先は見えているように思えてしまいます。
せめて年金にプラスして生きていければいい程度に働いておくか?みたいな諦めです。
何故そうなるかと考えてみた時に、物事を捉える心の在り方が成長したおかげで、
何事にも怒らなくなってきてしまっているのです。
あーそういう風にも考えられるよね。
人は変えられないけど、自分は変えられる・・・みたいな。
そんな気持ちで社会を見つめていると、社会のあらゆることがどうでもよくなり、
怒りと云う感情が、悪いもののようにさえ思えてしまいます。
まるで怒りの感情を忘れて、仏様のように・・・ただ笑みを浮かべて見つめている事の方が
善人であり、日本人の美徳でもあるかのように。
でも果たしてそれで良いのでしょうか
そう考えてみると、人間は成熟を目指すために努力をする訳だけれども
しかしながら成熟、完熟してしまっては、その先の未来が腐ることを意味しています。
そうならない為にも、やはり人は未熟であるべきなのではないだろうか?
という原点回帰ループの罠に陥っているのですが・・・・www
未熟であるが故に、怒りを覚え、その怒りのエネルギーで、
自分の思い描く未来へとなるまで努力し続ける。
そういう人生が安楽・安泰ではないかもしれないけれども、
自分を腐らせずに新鮮なまま、生(せい)を全っう出来、
また魅力ある人間作りをするのではないだろうか?
なー--んて、本日は思っちゃたりしていますwww。
心の原動力はの第一は怒りのエネルギーを持つこと、
そしてそれを持続するには喜びのエネルギーを同時に持つこと
さて、何に怒れば良いのだろうか?
差し当たって、生協の自動車保険の組合費1000円の払い戻しの郵便を
ポストに持っていくのがめんどいけれども、
「クソ!!何でめんどくさいシステムなんだ。解約時に自動返金しやがれ!」
などと怒って、ポストに投函しに行こうと思う今日この頃です😂
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さて、その未熟さですが、
未熟と云って第一に私が思い描くのはアイヌ民族です。
実は、バイクツーリングの時に北海道の4つのアイヌ民族資料館に立ち寄って、
見聞きした中で、どうしても色々と気になっていたのです。
アイヌ民族が日本本土への少なからず大きな痕跡を残しつつも、何故に文字を残さなかったのか?
そこまでの知恵や、世界観がある文明ならば、何かしら残せたはずなのです。
アンデス・インカ文明なども同様ですが、
凄まじい天文学テクノロジーを持ちながら・・・使いながら、文字を残さなかった。
口語によって、語り伝えられるだけの文明は他にもありました。
そして、その謎を解くカギがインドの音楽に存在します。
インド音楽は楽譜が無く、サンスクリット語でのグル(師匠)の存在であり、
グルより弟子へ伝承される、楽譜では表せない神との交信の仕方。
まるで子供が学校に行かなくても、会話が出来るようにです。
何故なのかというと、音楽は神との交流をするのに、人間の感動という感情もまた神であり
それにマニュアルや楽譜が無いのと同様だというのです。
確かにマニュアルや言葉というのは一定の水準を学び、伝承し、文明を保つ上では必須ですが
それによって感動や共鳴という精神性の深い所に訴えて、
神との交流は出来ないから残せなかったとも考えられるのです。
未熟であるというのは、もう一度、生き物の原点に立ち返り、
人がこの地球上で生きていることを考えさせてくれるものだとも思い始めています。
キリスト教では人を動かすには、いくつかの方法があると残しています。
例えば、恫喝や恐喝の類です。
対極にあるのは感動です。
それは言葉では、残せないのと同様かもしれません。
午後の記事に続く
本日もアラカンの偏った思考のたわ言にお付き合いいただきましてありがとうございました。