生まれてから、死ぬまで、本当に色々なことがありますよね。
当たり前ですが、人は自分に都合が良いことを、善い思い出として認識し
悪いことがあれば、不幸な思い出として認識する。
特にそれを感じさせられるときは、痛い思いをした時が初めて感じる不幸感であり、
その後に身体的痛みの他に、精神的痛みを知っていく。
つまり痛みが不幸の始まりですが、小学校で努力して走る練習をして身体が痛くても
順位という結果が伴い、周りの人が何やら褒められると、その痛みは努力だったという事を知る。
同様に、精神的苦しみを伴い勉強をして成績が上がったり、進路が思い通りに捗ることによって
精神的痛みを乗り越えて、結果を出すには努力が必要だという事を知る。
やんちゃをしてバイクで痛い思いをしたからこそ、初めて無謀な運転を控え、安全運転を心得て
痛い思いをするからこそ、丁寧に生きるという事を知る。
それは人によって違い、例えば
電車に飛び込んで両手両足を失って初めて、生きていることの喜びを実感する人もいる。
人は痛み、苦しみの中から喜びを得ることが出来ていくのが不思議だ。
俺はついていない、不幸だ。幸せはどこにあるのだ?というのは、
つまり同様に現在つらい思いをしていない表れでもあるし、
努力をしていない裏返しの言葉かもしれない。
事象は、自分が作った事象であり、つまづいて骨折するという事象も歩いた結果であり、
あおり運転に逢うというのも、相手を引き寄せてしまう何かがあって、遭遇するのだし。
台風の進路も、もしかして私の吐いた二酸化炭素量が少なからず影響しているかもしれない。WWW
これらを一言でいえば因果関係とでも云うのだろうか?
事象とは自分の行動一つが次の事象を産み、連続した事象が見えない歴史の軌跡となり
その軌跡が痕跡となって残っていく。
そしてその痕跡を人が目にした時に、影響され、他人の事象と絡み合っていく。
事象という見えない一点をつなげていくと、話が広がっていくところが面白いし、
360度思考を刺激してくれもする、いい言葉だとも思う。
だから何だ!という
本日も歯切れの悪い、結末のない、堕睡や嗜睡をむさぼるような流れで、点で区切らず
延長線上の事象として、独り言を書いてしまって申し訳ない感じです。
罪滅ぼしの画像で、読者の心の浄化を・・・
本日もご覧いただきましてありがとうございました