神社総代の仕事 祈年祭 | 独学の道Ⅲ

独学の道Ⅲ

自分で自分を変えることは、到底無理なことかもしれないが、それに望む気持ちの自力論は高尚で偉大である。
仮にその結果が甚だ振るわなかったとしてもだ。
By幸田露伴(努力論より)

本日は朝から、玉串料を包んで、神社へと出陣です。

 

神社敷地は随分と雪が解けて杉の枝が気になるくらいになっていました。

子供会が4月より、月1回神社掃除を行うので、来月には、敷地一面の苔が見える事でしょう。

 

今日は風も強く、神社の中はスースーと風が吹き込む中で1時間正座との戦いです。

 

正座をして、神様に榊を捧げる時や、挨拶の時などは、三つ指ならぬ両手を揃えて、

 

何度も低頭してお辞儀を行い、・・・・

 

 

実はその都度に、神様という共同幻想に支配されているこの集団をニーチェが見たら、

 

どう思うのだろう?とか、哲学者の立場に立って神事を見つめてみると

 

冷ややかに自分の低頭するお辞儀の儀式は、実に面白く、バカバカしく、義務的に

 

そして、また人に謝る機会でもないに、このように丁寧にお辞儀をするのは、

 

人生において、恐らくこの時だけであろう・・・・などと完全に神事に集中せずに、

 

「我心ここにあらず」でした。

 

足の痺れとの闘いを終えて、午後より時間が出来ましたので、久々にというより

 

今年になって初めての千歳山にトレッキングに行って見ようかと決めて出発です。

 

 

 

森林組合の松の木の松くい虫駆除の為、随分と伐採が進んで、

 

見通しの良い山になりました。熊さんとはお会いしなくなることでしょう。

 

何となく今日は、木の切り株に愛着というか、この時を逃したら、

 

あとは、朽ちて風化して見れなくなりそうだったので、伐採直後の綺麗な年輪を残しておこうと思い

 

スマホのシャッターを切りました。

 

段差を付けてチェーンソーで切ることにより、どっちの方向へ倒したかが一目瞭然です。

 

40年とか50年とか経ていて、まるで自分の年齢と同じ、同級生が切られているのを見ると

 

何とも自分自身のようにも思えてきて、少し悲しくもなります。

 

この木なんかは、年輪が密になっていて、相当年月を経ているのが分かります。

 

そして時折成長の良い年が見えて、気候が温暖で伸び伸びと成長できた年が

 

10回ほどあったようにも見えます。

 

自然界にとって厳しい時ほど年輪は密になり、木の強度は硬くなり、価値が上がるのが木材ですが

 

人間も同様に、厳しい人生で頑張った人ほど、精神や人間性が磨き上げられ

 

価値のある人間になるんだろうなぁ~なんて・・・・

 

思いながら、自分のゆるい生き方を今更反省しても取り返しがつかないなぁ~なんて

 

年輪を見つめながら、つくづく思わせられたトレッキングの一コマでした。

 

今日は時間があったので、スマホで動画を撮ってきましたので、

 

こんな感じの道だよという感じで、見ていただければと思います。

 

 

ご覧いただきましてありがとうございました。お願い