ちょっと、頭おかしい感じです。
いつもでしょ!というツッコミはご愛敬
そうでした(*・∀・*)アハッ
先日のブログでも紹介した、パッチアダムスの映画に登場する、
精神病院に入院している富豪が、主人公のアダムスに対して、指を4本突き立てて見せ、
「これが何本に見える?」と聞くシーン。
4本に見えると答えると・・・・「イカレテル!」と貶し、
やっぱりお前も馬鹿なのか?という風に元の場所に戻っていくシーンは、
この映画の始まりでもあり、回帰する部分でもあるのですが・・・・。
本日は、以前購入していた本で、名前は知っていた篠田桃紅(とうこう)「103歳になってわかったこと」
の書籍でも、面白い視点で見える人だなーと思っていたのだが、
たまたまユーチューブでオススメに出てきたので、つい見入ってしまった。
、
やはり、ここでも川という漢字が、直線を3本書くのでは飽き足らず、
「線を多く書いて川にしたい」という、もはや書道家の領域を飛び出して、
美術家への道を歩む事になるのが40歳だったと云うから驚きだ。
やはり、人間は究極の所、決められた枠を飛び越えてはみ出すことをいとわない性格を
持ち合わせていないと大物にはなれないのだと、改めて思い知らされる。
指4本を見て、4本にしか見えない目線と、寄り目にしながら見れば8本に見えるという、多角的視点。
そして、篠田桃紅さんが、筆で直線を描く事を続けて、かれこれ100年にもなるが、同じ直線でも
随分と魅了される直線で、一見すると自分でも簡単に書けそうだが、そうでもなさそうだ。
一本の直線に相当の魅力が見える。←完全にイカレテルな・・・オレ
因みにヤフオクで、作品を調べてみました。
私が一番いいなーと思った作品が、左上の細い線だが、385万円もの値が付いている。

筆で線だけを描いて、芸術が成り得ている所が本当に凄い。

人は・・・自分、もしくは社会の共同幻想によって、一線を決められており、
この一線を越えるものは、正常な人間の称号を剥奪されることを意味し、
そうならないようにと、警察基軸である処の絶対正義という倫理、
そして人情・時代を鑑みて赦し処が宗教上変化する道徳が周知されている。
しかし、それは人間の世界だけで、その他の生命体には無い論理だ。

植物界に於いては、どのような手段を以ってしてでも生き残ることが優先され、
動物界のゴリラですら、子供の食料でさえ、親が力づくで奪い、
熊に到っては、オス熊は、子供を食い殺してでも、メス熊と繁殖行為を優先しようとする。
動物界や植物界に、倫理観や道徳観は無いのだ。

人間は、生まれた頃より、金太郎飴のように良い人間であるようにと教育を施されるが故に、
この芸術という正常な論理を外れた概念に到達することは難しい。
昔、天動説が尊ばれていた時代には、地球には端があり、
端まで辿り着くと、あとは落ちて死んでしまうとさえ思われていた時代のように、
枠の外にはみ出てしまうと、生きる世界が残っていないように錯覚してしまいがちになる。
しかし、現実にはそんな事は無く、
むしろ共同幻想の枠外にこそ、生き残る術が残されていると言っても過言ではないのかもしれない。
だとするならば、現在の教育のシステムを変えて、枠を広げる教育改革をしなければ、
日本人は世界に対してクリエイティブな活路を見出すことは出来ないのかもしれない!
とまで考えてしまう。
何故そう思うかと云えば、戦後の日本はアメリカやヨーロッパの模造品を作ることから始まった。
そしてその精度は、いつしか本物を超えてしまい、やはり日本製だというブランドという信頼性を勝ち取り、
バブル経済に到ったのだが、
その後、中国や後進国が同様に格安の労働力でマネをし始めて、
日本は相対的に衰退路線へと傾くが、脱出する活路を見出せずにいた、今も居る。
政治力によって、予算を科学技術に割り振ってみても、
その科学技術はノーベル賞受賞者の関連企業に消費されるのみで、新興勢力にまで届かない。
つまりは、日本の教育概念の枠を広げて、4本指を見せた時、8本と云える人間作りをすることが、
↑
精神病院送りは止めてね、あくまでもクリエイティブ目線だから・・・
今後求められるのかもしれないと思った次第なのです。
因みに、死ぬことが恐いとか、生まれてきたのだからいつか死ぬのだとか、
未婚で一人寂しくないですかとか?夜は寂しくないですか?とか
「こういう決まりきった事を考える無駄な事をしてしまっているのは
勿体ない
、そして真理に対し本気で向き合っている人は居ないわね」、
と考えるのが篠田桃紅さん流だ。
さらりと、人間が誰しも考えて悩むであろう、大きなテーマを、一蹴りで追いやるその思考は、
やはり普通の人間が考える、普及型共同幻想の枠を超えていて、
出来うるなら私もそちら側へ行けないものだろうかと思わせられる魅力に溢れている。
長生きするとそうなれるだろうか?イヤそうではない、
真に向き合い続けた人生だから自然発生的にたどり着いたのか?
いやそれも、そうではないだろう、
やはりエネルギーの忖度の結果、専門外の思想は専門家に任せて、
自分の専門は「墨汁を使った書」であり
始めは就職するのも嫌で逃れ、結婚という束縛も逃れ、逃れた結果残ったものが
「書を使った芸術」の世界であり、
まさに引き算の美学が人格形成にまで達した結果の
切れ味鋭い日本刀のような考え方と物言いなのかもしれないと思う印象だ。
そして、私もそうなってみたいと憧れに思う。
さて、話を元に戻すと、私が考えている以上に倫理や道徳を教えられてきた枠の外の空閑は
思った以上に広がりがあり、自殺する人々は狭い普及型共同幻想の枠の中で窒息してしまい
限界を感じ追いやられるのだろうから、この世にはもっともっと広い世界が広がっているということを
芸術家から、そして芸術作品から教えられる訳で、
またそれをそういった目線で語れる人間を
養成していく事も必要なのではないのかなぁ
↑
全ての教育者がという意味
と考えてしまったのです。
ちょっと幸田露伴流に言えば、「言葉の無駄遣い」をしてしまいました。
反省

自分で書いていて・・・長いよ話が・・・どんな頭してんだコイツと自分でツッコミたくなります。(*・∀・*)アハッ
という事で・・・・オチが無くてすみません。
本日も長らく、お付き合いいただきまして、ありがとうございました。
