追憶 | 独学の道Ⅲ

独学の道Ⅲ

自分で自分を変えることは、到底無理なことかもしれないが、それに望む気持ちの自力論は高尚で偉大である。
仮にその結果が甚だ振るわなかったとしてもだ。
By幸田露伴(努力論より)

追憶とは「過去を思い出し偲ぶこと」

                      ( ;゚д゚)ェ..........................何がありました!? ニル氏目

                                         ↑

                                           ニル氏の顔が分かる人、いねんじゃね!

防水スピーカーを購入したので、ゆっくりと風呂に入りながら、

 

 

結構このスピーカーいいね!

 

 15Wってかなり音量出せるし、音質破綻しないし・・・

                              ↑ 

...三点リーダー症候群って言うんだって!

 

ただ恰好がなぁー俺好みじゃねーけど・・・なんて、空間に広がる音楽何かないかなぁ~。

 

そして

 

佐藤直樹さんの追憶って言う曲を聞いた瞬間、いつものヤル気スイッチが入ってしまいました。ガーン

 

追憶

 

 

追憶って?何?記憶と何が違うの?という疑問です。はてなマーク

 

佐藤直樹さんの代表作「龍馬伝」の曲 ↓

 

 

 

以前に上のPickにある教誨師の本を読んだ時の事ですが、

 

教誨師の内容の中でも、なぜ自分が道を踏み誤ったのか?と
 
後悔ではなく、ターニングポイントがどこで、何がきっかけで、
 
そこで自分の未熟な心持ちは何処に向かえという指示で、
 
向かった積み重ねの結果が、今という自分を存在せしめているのか?
 
後悔などは何の意味もなく、zzz
 
ただ気分を貶めたい時にだけ使う言葉であって、むかっ
 
一方通行の時の流れの中では、虚しい足掻きに過ぎず、
 
時という宇宙全体を含む、この世界では意味すら持たない。
                         ↑
                                  そんな事は無いでしょ!言い過ぎ!
そんな大いなる時空のレールに、まるでリニアモーターカーのように
 
いつ動いたとも知れず、流れ行く人生という船に載せられながら、
 
過去を思い出し、そして偲ぶ回数が増えることは、
 
 
認知症という病気になる前の、正常な脳が振り返る「過去という記憶」であるのだが、
 
また記憶と例えると、野菜と油としょうゆを入れて煮ただけの浅い印象でしかなく、
 
やはり思い出という言葉まで、しっかりと脳の中でしっかりと時間をかけて煮込んだ煮物のように
 
記憶を熟成させた思い出という言葉の方がしっくりと感じるが如く
 
味わい深い記憶になっていくから、偲ぶという行為は、
 
何度でも思い出し噛みしめたくなるのではないだろうか?
言っている意味が分かりません。例えが分かりません!というご指摘はごもっとも!
 
日本に入って来て100年を経るユダヤ教やキリスト教で云うところの「愛している」という表現
 
は今ではなじみ深いが、それよりも以前から日本人の心に響く表現が、
 
「いとかなし」ということばであり、
 
心が成熟しつつある時には、「愛してる」という表現を多用するが、
 
更に追熟して甘美と深い味わいを併せ持つ人格へと進み、枯れてくると「いとかなし」、
 
つまり田舎言葉で [むごい(ひどい)] もしくは [もごさい(可哀想)] という、
 
本来の意味とは異なる表現をする(感じる)ようになり、しばしば若い人に誤解を与えることがある。
年寄り:子供を見て「もごさいな~、もごさいなー」という
若い人:「別にかわいそうじゃないから!」!プンプン
 
老人と話していると時折聞くであろう、かわいそうに・・・
 
その言葉は実は愛しているよの古語なのだ!
 
万葉語でいとかなしという愛情を表す言葉を知らぬ若い人にとっては、
 
悲しいと捉えてしまう事により、年寄りとの解釈のすれ違いが生じる事が度々起こる。
若い人の勉強不足
 
 
記憶があり、時を経ていつしか一世紀に四半世紀不足する頃より、
 
追憶となり、苦しい記憶だったり、痛かった記憶だったりと様々なマイナス感情が何処かへと昇華され、
 
純粋な喜びや、楽しかった思い出のみが残り、そして感謝の思い出へと、いつしかすり替わっていく。
 
老人は、偲ぶたびに涙するのは、感謝の気持ちが溢れる涙となってこぼれ落ち、
 
若い人には、涙もろい爺さんと婆さんだと馬鹿にされるが、
 
それだけのかけがえのない素晴らしい思い出が、追憶という形になり詰まっているからの現れであろう。
 
そして若い人にとってのフラれ涙や負けた悔しさ、騙された涙も、四半世紀も過行くと
 
追憶の堆積する一欠片に過ぎない事に気付くであろう。
 
 
人はこの追憶という思い出という財産の世界にいつまでも浸って、感動していられるのものでもなく、
 
その期間は、じつは束の間なのだ。
 
偲ぶのは良いのだが、いつまでもしのんでいいると、違うしのびが忍び寄って来る。滝汗
 
 
そう、それは!!・・・忍び寄る忌まわしき存在である認知症という老いがやって来て、
 
感謝の思い出は徐々に削り取られて行く。ゲッソリ
 
 
そして無の境地へと旅立つ人間の営みの上で、
 
成長 成人 結婚 出産 悩み 事故 離婚 死別 等など人生のターニングポイントは
 
一人一人違うタイミングや、きっかけで降り与えられる。
 
 
どのような場合も選択をしなければならず、
 
その時は正解だと思った事も時が経てば、それが正解ではないと思ってみても、
 
絶対という正解がないのだから
 
答え合わせは追憶の中で後悔という形ではなく、感謝という言葉で拭い去る他はなくなってくる。
 
 
こんな事を書いていて、ふと思うのですが、
 
後悔という言葉がいかに陳腐な悲劇のヒロイン言葉であるのかを今知ってしまった。
 
後悔とは、「チェ!しくじったぜ!」的な軽いノリで、流し去る感情であり、一生持つものではない事を。
ウシシ
そして過去を振り返り、感謝できているうちはボケが来ないという事も何となく分かってきた。
チョキ
日本人って、ホントに単語作るのが上手いよね!グッ
 
そんな感じで、今日も追憶について調べて、個人的なイメージを載せてみました。チョキ
 
ちょっとロマンチック?それとも屁理屈大王様?wwwパー
 
ビール片手に書いているので、いつも途中がこんがらがっちゃう━━━━(TДT)━━━━!!
ドクロ
ご覧いただきましてありがとうございましたお願い
 
今日の一曲グッ