方(かた) | 独学の道Ⅲ

独学の道Ⅲ

自分で自分を変えることは、到底無理なことかもしれないが、それに望む気持ちの自力論は高尚で偉大である。仮にその結果が甚だ振るわなかったとしてもだ。By幸田露伴(努力論言葉より)

朝食を食べていた時に、弟がコロッケ買ってきたから食べてと

 

テーブルの上に、ビニール袋のままポンと置いた。

子供の時なら、どれどれと自ら覗き込み我先にと頂戴するところだが・・・

 

何分とも歳のせいか油で揚げたであろうコロッケは、迷った挙句にそのままにしてしまった。

 

以前、幸田文さんの包むという書籍を読んだ時、いかにも女性らしいという目線を教えてもらい

 

 

目から鱗であったが、それ以来、ちょっとしたことに多面的見方をしてしまうようになる。

 

つまり、考えすぎかもしれないが、ビニール袋のままに置かれると、食べてもらいたいのかはてなマーク

 

それとも自分の為に買ってきたものだから、欲しい時にはあげるよというスタンスなのか分からないえー?

 

農家の長男として育てられてきた。つまり上げ膳据え膳、

次男はご勝手にの立場から物事を見てみる時、

 

相手に食べてもらいたいときには、ビニール袋から出して、更に、包み紙を取り去り、

 

目の前に置いておくならば・・・食べてみてビックリマークというメッセージとして受け取れるのだが・・・

 

出来るなら、レンジでチンして湯気の立つようにして、出来るなら、包丁で切ってくれると・・・

 

出来るなら・・・タルタルソースが近くにあり・・・

 

まーこう云った提供の仕方が上げ膳据え膳な訳だが・・・

 

 

現代ではそんな家庭はまずないだろうえーいやあるかも!?

 

 

今年に入り、神社の総代を申し付かり、榊という木の枝1本を神社の神棚に挙げるのですら

 

神主から受け取る際に、左手と右手の榊の持つ位置、

 

 

それを神棚に置いてくるまでのクルクルと回転させて、差し上げるまでの一連の作法ときたら・・

 

本当にめんどくさい。チーン

 

出来るなら、投げてやりたいのが本心だが、立場というのは恐ろしいもので、

 

その作法を順番にこなして、それを周りの人たちが見て、心が静められ、

 

皆同じ方向へと意識を持って行くための儀式とでも云うのだろうか?

 

榊を置く前に、立位から座位に向かうまでの、まず膝を着く位置や座り方、

 

そして指の床へのつき方とお辞儀の角度とお辞儀をしている時間などが決まっており、

 

たかだか頭下げるのに、なんてめんどくさいのだろうと思うのだが。

 

その動作を皆がつつがなく進行し、終えた時、

 

見えない神という存在を感じることが出来るのが不思議だ。ひらめき電球

 

同様に幸田文さんの文章の中から、丁寧に生きる、本当の意味でのおもてなしを同様に

 

感じる事が出来て、人に何かを提供するときに、同じものを差し上げるとしても、

 

ビニール袋のままポンとテーブルに置かれる提供の仕方もあるが、

 

やはり提供するまでの儀式がいかほどに重要なものかアップ

 

改めて、花より団子を卒業したのだなと考えさせられた今朝の食事であった。

 

そして、話は続きますが、

 

日本人の特徴は?と聞かれた時、日本人自身は気が付きにくいのだが・・・

 

実は色の分類や表現方法の細かさと云ったグレーゾーンの広さを持ち合わせているというのが

 

日本人の特徴らしい。ニコ

 

赤は赤でも、様々な名前が付いており、イタリアンレッドや紅など、挙げればキリがないので

 

割愛して進めるが、そんな細やかさや日頃の当たり前と思う事も、外国人にしてみれば

 

おもてなしと感じてみたりと、これらの儀式が発達した背景には成熟という経過を経たが故であり

 

音楽の発展をはじめから追って見ていくと分かるように、

 

神に捧げる儀式より様々に発展して現代に到る。

 

これを現代音楽に於いて、改めて見つめて世に問い続けているのが秋元康であり、

 

キーワードはファです。

 

 

ファの音階は、神の音階であり、神に捧げる音なのだから、神音階を除いて作ったというのが

 

AKB48や日向坂46での作曲というのは、裏の世界では有名であり、

              ↑

              私は裏の人じゃないですけど・・トホホ

 

 

地上の我々が、賑やかに踊り歌い、神々の耳にそれが聞こえ、何やら気になり出し、

 

そして、「下界へ遊びに来てほしい」という願いが込められているのかもしれない。

勝手な推測です

そんなあたりを秋元康さんに話したら、きっと口角をゆがますことであろう。

 

故に、秋元康目線で見た時に音楽とは、神に捧げ、神に愛されなければ、

 

自分もまたその世界に愛され蔓延ることが出来ないと云う

 

おもてなし精神によって書かれている辺りは、流石としか言いようがありません。

 

このように、様々な方面から、方を見てみた時

 

方の重要性が見えてくるような気がします。

 

無くなった爺さんが、果樹園に苗を植える時、買ってきた苗のプラスティックを外して

 

 

丁寧に底の根をほぐして、先に穴に水をやり、丁寧に置き、土をかぶせては、また水をやり・・・と

 

当時の私にしてみれば、穴にポンとおいて土をかぶせておけば、雨が降って勝手に育つんじゃね!

 

と思っていましたが、それらの丁寧な儀式が、私を学校へと送る資金の源であったと気が付いたのは

 

祖父が死んでからの事であった。

 

何事も、やればいいというものではなく、その過程が実は重要で、方を無視し続けていくとき、

 

それを見ていた者達のグレーゾーンと呼ばれる範囲が狭められていき、白黒つけようか?的に

 

次第に貧しくなっていくのだろうし。

 

儀式というのは、神に捧げるという建前に於いて、見ている我々に豊かさを与える儀式でもあったのだと

 

今更ながらに気が付いて、何ともトホホです。チーン←もっと早く気が付けよ

 

という事で、本日の記事はやり方が豊かさを導くという内容でした。

思い込み

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