まずは、今日は丸一日釣りをしてきました。
昨日ハタハタが入って来たとの情報を入手して、早速2時起床での出発です。
イヤハヤ・・・相変わらず凄い人です。左を向けば・・・立ち見客まで居るじゃないですか?
右を向けば・・・さらに人間密度が密過ぎです。
この地域では、コロナが流行しているので、冷や冷やしながらの釣行になりました。
第一波が入ってきた昨日は爆釣だったそうですが・・・本日は1時間に1匹レベルの釣果でした。
結果的にはこんな感じ。
14匹、バラシ5匹。
西京漬けにして、頂きまーす!。
それはそうと・・・なにせ片道4時間近くも運転しているもんだから・・・ヒマでヒマで・・・
鼻がムズムズしてきて、 鼻毛を抜いてしまいました。 お食事中に失礼いたしました。
アラフィフを越えようとすると、下品の品格も上がってきます。(*・∀・*)アハッ
抜いた鼻毛を見てみると白い鼻毛です。
あー歳をとってしまったなぁーという現実を突きつけられた思いで、
少しばかりロンリーな気持ちと抜いた痛みで涙目になりながら運転をしていますが?www
待てよ!
なぜ毛が白くなるのだろうか?←ハイ出ました持病発病です
皆さんは思ったことがありませんか?
まだ白い毛は出ていませんか?
心臓に生えている毛は・・・白くなったかな
メラニン色素が抜けることによって白くなるのですが、ホルモンの減少によって、油脂の分泌が減少して、
黒い毛では摩擦時に切れてしまうために、油コーティングの必要性のない・・・
白くて硬い毛になるのでは?
皮膚を守るのが、毛の役割なのだから、毛が切れてしまうと、齢のせいで皮膚が薄くなった部分を守れなくなるために
敢えて、皮膚の防衛のために、硬い毛になってくれているんではなかろうか?と思ったのです。
子供のうちは、油が豊富で、汗もかくので、毛が無くてもツルツル滑るような肌で、
どこに擦っても皮膚は捲れません。
かすりどころが悪くて白い真皮層が見えるだけです。
歳をとると、シワが摩擦を減らして、パックリ割れるのを予防しますが、
シワの前段階として、白髪となり皮膚を守る訳です。←勝手な推測です
つまり、第1段階は無毛。
第2段階は油脂・汗豊富による皮膚防衛、
第3段階として毛が生えて皮膚を守る
第4段階として白髪となり黒髪よりも硬くなり、さらに弱った皮膚防衛を行う。
第5段階として、毛も細く薄くなるが、その代わりにシワが豊富となり、多少の摩擦はシワによっていなして皮膚を防衛する。
恐らく人間の毛の働きは、第5段階まであるんじゃね!って思いました。
これが毛の発達から終わるまでの事実だと思います。
そして、DNAのテロメアが近づく毎に段階を踏んで、人間のDNA劣化具合をお知らせする働きがあるということが、
毛の真実だと思うのです。
またもや、鼻毛をむしって変な事を考えているおっさんになっておりますが・・・
ついでなので、現実・事実・真実と云うのは何なんでしょうか?
夜に運転をしていたら、対向車線のトラックの運転手が赤信号を無視してきました。
ここは農村地帯で、夜間、両側田んぼの直線、雪道で歩く人も居ないし、ましてやパトカーも居ないし、誰も見ていない状況。
自分も信号無視しようか?と考えながら減速徐行して交差点に差し掛かる前に青になったので、信号無視をせずに通過しました。
この場合、私の悪魔が「誰も見てないよ!罪にはならないでしょ!」って声を掛けてくるんです。
この声は、何処から?
現実的には、信号無視しても、誰も困らないし、罪にもならないのだけれど・・・
自動車を運転する以上は免許に則って倫理観に照らし合わせて規則を守る。
守らなければ・・・・警察のルールに則って判断される。
警察の正義感とは?誰が決めたんですか?
そんな中二病的思考ループに陥ってしまいました。
話が反れますが、
自分を殺すことは良いことでしょうか
相手を励ますことは良いことでしょうか
一般的に考えれば・・・
自分を殺すことはダメですよね。
しかし、自分という我を押し殺して、相手に従う事は社会で生きて行くためには当たり前で、
社長以外の人間は自分の思い通りにはいきません。
つまり、社員は自分の自我を殺すことが良い社員ということになります。
では次に
相手を励ますことは・・・普通の人には良い行いですが・・・
精神を病んでいる人に励ますと、自殺してしまいます。
つまり悪い行いという事になります。
このように、目線という基準が変わることによって善悪の概念は変わります。
前々回のコロナ心理をフロイトに尋ねるの記事にも書きましたが、
倫理とは
人として守り行うべき道、善悪・正邪の判断に於いて普遍的な基準となるもの
つまり、普遍の正義
道徳とは
人のふみ行うべき道、人々がそれによって善悪・正邪を判断し、正しく行為するための規範の総体
つまりは、思いやり・親切心などに代表される、場合や立場などによって変わり得る正義など
この解釈の違いの基準軸はどこなのでしょうか?
自分の判断は、絶対正しい!と思う人は罪であるという言葉を聞いたことがあります。
↑
ココ重要
赤信号無視は正しいと自分が考えるのならば、そもそも倫理や道徳の規準に当てはまりません。
生きている段階で行う全てが社会的犯罪ですよね。
・・・ですから、誰から見たら不変の正義であるのかをはっきりさせる必要があります。
事件が起こると、警察による善悪判断。
悪と分かれば、司法による善悪判断と罪名の認知と償いを課せられます。
まず警察による善悪の判断は、絶対正義の基準。
人を殺すことは、許されない。つまり悪
自分を殺すことは、他人を傷つけないので善。(自殺とは別)
裁判における判断は、過失があるかないか・・つまり事故か事件か
↑
ドラマの見過ぎ?でしょうか
その中に於ける善悪の裁量という事は、普遍の正義ではなく、道徳観による善悪判断となり得ます。
とどのつまりは、警察組織は神という名の下の絶対軸を基準とした判断であり、
裁判官などは、人間界を基準とした善悪判断を行うのではないだろうか?
いや、現実的には素人なので、分からないけれども・・・・失言かもしれない発言ですね。
先ほどの赤信号無視の場合、絶対基準つまりは神様は見ていますという中で、誰も見ていなくとも赤信号無視をすれば罪を作ることになり、
人間基準として勘案すれば、人間は皆寝ているし、誰も居ないのだからいいんじゃね!という基準で見てみれば罪は作らない。
東日本大震災の時、信号がすべて停止し、全員が信号無視して運転していても、
事故が1件もなく、子供を幼稚園や小学校に迎えに行ったりすることが出来ました。
このような大災害時に、100%の方は、自分と家族の命を守るためにルールを無視します。
神様は見ていますと云っても、生きるか死ぬか?の状況に於いて、車を運転せずに、子供を向かえに歩いていくバカはどこにもいません。
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いや居るかもしれないけど
ですから、幸せな豊かな状況に於いてこそ、絶対的善悪が必要なのであって、
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自分の勝手な解釈です。すみませんペコリ
本当に生き抜くためには相対的尺度の善悪判断で良いと思うのです。
そんな事を言うと、赤信号無視を赦すことになりますが、私一人しか見ていない状況でしたので、
トラックドライバーは生きるために信号無視したのだと帰着して、納得することにします。
まとめてみると、
赤信号を無視したという事実がある訳ですが、現実には私以外誰も見ておらず、警察的な罪を作ることは出来ない。
そして、私が人間的尺度に於いて、ドライバーには理由があって無視したんだろうから、見逃して赦そうじゃないかという
道徳的判断を行ったというこちら側の真実があり、当事者の真実は見えないのが残念ではあるが・・・
このように今日も釣りに行って帰ってくるだけなのに、余計な事を考えてばかりいて・・・
私自身が道路を見ているんだか?ブログの記事を考えながらのながら運転をしているんだか?
過失という観点から見れば、私の運転は完全に不注意運転なのだから、警察サイドから見れば、完全に悪い運転です。
世の中は、自分が絶対に正しいという、そもそもの罪作りな基準から始まり、非常に厄介なドグマに飲み込まれており、
頭がヒッチャカメッチャカです。
本日も、めんどくさいブログをよくぞ最後までご覧くださいました。感謝します。