はたまた、今日も意味不明な出だしと、単純な単語だけれども、意味多い文字でもあります。
その言葉は、今は同じ背中合わせの状態でも、経過と共にお互いの背中は離れ、
あい対して離れ行く運命を予感しているような語彙でもあり、
さらに「化」と、いかようにも変わることが出来ようとする文字を一字追加しただけで、
さらに思い描き夢の膨らむこと壮大である。
さて、そこまで、イメージを膨らませておいて、その種となる事柄は何かと云えば
それは人である。
人が核としてしまえば、この世にある全ての書籍や歌などは、アインシュタインなどの理論などを除けば
ほぼ全てが核とされるのではないだろうか?
しかし、人を核という事にしてしまえば、人という実が実るだけで面白くもない。
やはり、ここは、人という存在を原子核のレベルまで精微にしてしまえば、
さらに多くのものへの礎として考える事が出来る。
今回は、人道派が人を核としたテーマで考えるのに対して、原子核の小ささから派生する内容という、
云わば、そこまで言ってしまうと、何でも良くなってしまうのではあるが・・・・
以前書いた記事の「なんだかよく分からない」からの題材を派生させて使いながら進めていこうと思う。
この記事の時は、キーワードの一つに「場踊り」という言葉を何度か出して、そして解決せぬままに、
次への転換をして、視聴者から話題をサラリと、肩透かしのようにやり過ごしてしまった。
この場踊りの意味、解釈が咀嚼されたばかりで、嚥下もせずに、ましてや腑に落ちる事もないままに、
私の消化器官のどこかに残り続け、しゃっくりを引き起こすまでになっていた。
そして、本日しゃっくりが起こり、
人というテーマを原子核とするもう一つの二極化という語彙の棘がのどに刺さり、
致し方なくPCに向かい記事を書き、
自らの心を整理するかのように、まるで水を飲み棘を流す行為の如く、ここに書き綴るのである。
前置きが本当に長くなって申し訳ありませんが、この長い前置きも二極化の一極なのです。
何を申すかと云いますと、文章は短く簡潔にと小さいころから教えられてきたかと思います。
私もなるべく、短く簡潔に、そして相手には分かりやすくと心がけてきました。
そのような教育を日本人は受けてきているのですから、
コンピューターでいう処の機械語も、簡単にするためにコボル言語やBASIC言語、C言語、
HTML5などのように、短く簡潔になってきています。
そして、今ではSNSに代表されるように、ショートメッセージで相手に伝達するものだから、
語尾しか伝わらず、度々トラブルに見舞われます。
結局は対面して表情や、口調などの多くの相手からの情報を得ることによって、そして補完し
誤解だったのだと、咀嚼嚥下できるという古典的なところの解決法に戻ってしまうのも、
二極化の悪い極面なのかもしれません。
やはり、伝達は何を(主語)、どのように(述語)、どうすると(動詞)を最低でも述べなくてはなりません。
可能なら形容詞などの装飾があれば、感情がリアルに伝わるのですが、「ゲッゲッ!」ではいけません。
このように以前から、簡潔にしなければ・・・と努力をする反面に、何か燻る思いもありました。
その思いは、未だ発火点を見い出すことも出来ず、
煙のみが、のろしのように天高くまで繋がろうとしてる矢先に、小さい炎がやっとついた感じで、
今に至るのです。
つまり、簡単、明快、分かりやすくを目指す文化から、
早い、安い、旨いの○○家の牛丼の庶民用語を代表するように時代を経て、根付いてしまい。
本来から存在していた、日本語の表現力を乏しい方向へと衰退させている極面もある訳です。
故に、もう一度、簡単なのは良い事なのですが、全てをショートカットするのではなく、
その、根源にある感情や思いというのを一旦正確に心が思うままに表現して、
そこから、わざとその文面をショートカットして簡略化した表現ができるという
二面性を持った言語能力の獲得が、これから必要なのではないかと思うのです。
休憩
場踊りという表現は、人が、動き、視線、仕草、指先など所作などという表現の塊で、
あえて声を出したり、シナリオ化するのではなく、伝えるという根源を表したものと
見る事が出来ます。
我々は、シナリオ、音楽、声、衣装という云わば、人、本来の持ち得る表現を無視して、
見る目を養ってしまっている気がします。
それは、性差によるプライバシーの侵害を気にするところもあるでしょう、例えば裸で踊ったりとか?
あえてそこは、アダルトビデオの世界やヌードと云った芸術へ投げやって分担させているのかもしれません。
もしそれが、一元的であったなら、場踊りは、人間が自分という身体を使った表現の
基礎になるのだろうと思うのです。
そう思った時、場踊りの役割は、一見、異様にも見えてしまうのは、
音楽やリズムに合わせた踊りを、こちら側が期待しているからであって、
音楽やリズムを排して、踊りという単体の芸術表現を見た時に、
古典的な「舞」を代表されるように所作の美しさで人を魅了するという、美しさに気が付くはずなのです。
もしくは、主演者が訴えるものを正確に捉えようとするものではなく、こちらがどのように思ったか
・・・の数の多さが、芸術性の幅の広がりを生むのだと云っても良いのかもしれません。
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芸術とは、提供する側の伝える技術と、提供を受け取る側の感性を広げる事ももう一つの芸術と言いたい訳です。
話が長くなってしまいましたが、二極化というのは、言語的発展と衰え、
つまり単純明快を求めていくなら、正確で装飾のある表現の衰えを示す事になり得るだろうし、
ダンスや映画に代表されるように、衣装や音楽、人数、照明に力を注ぐほど、
マイケルジャクソンのような個人が表現する魅力は損なわれ衰えていうだろうし、
いわゆる、動作的発展と衰え
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オリンピックの記録更新と、反面スキップが出来なくなるなどの現象も増えている
もう少し簡単に伝えるのならば、
パソコンで文字変換をしていると、漢字が書けなくなるようにと例えると分かりやすいだろうか。
いや、ちょっと無理があるか?
何を云いたいかと云えば、めんどくさいこのような文書を読む力を育むことが一面として必要で、
私には、このめんどくさい表現を簡潔にまとめる能力も必要な訳で・・・
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本質はココ、必要とする二極 複雑を理解し、簡素を理解しという部分
いわば、思考的、解釈的発展と衰え
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こうでなければならないという、偏見という衰えなどを指す
時代と共に進むこれらの二極化は多岐の項目分野に亘るだろう。
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めんどくさいことは専門家に任せようという心理
それを専門分野と云って、職業が成り立つことも現代流なのかもしれない。
すみません。二極化というテーマをいいことに、徒然にあえて難しく書きすぎてしまったかもしれません。
あまり奔放に、そして長々と書いていると、今度こそ、こいつは…と見限られそうなので、
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やっぱり○○症か!と
ここらへんで一旦、大きく広げてしまった風呂敷を、たたみ始めようかと思います。
また、風呂敷に包んでは持ち帰り、棚に上げて置き、
次回ほとぼりが冷めた頃に、また持ち出してきてみようかと思います。
本日も長々とお付き合いいただきまして誠にありがとうございました。