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因幡の白兎のブログ

日本古代史、神話から日本の古代の真実を紐解きたいと思っております。

(前回のあらすじ)
 神武天皇の実在時期を推定すると、古事記に記された十代崇神天皇崩御の年(戊寅)を西暦三一八年と仮定、神武天皇までの九代を直線グラフ上で辿って行くと、神武天皇ご崩御の歳が凡そ紀元二〇〇年頃となります。また、中国の『後漢書』東夷伝の記述によると、後漢の時代で桓帝と霊帝の間(一四六~一八九年)、倭国は大乱、互いに攻伐しており、暦年に亘って君主がいなかったとあり、その時期が神武東征のあった時期と仮定しました。

(以下本号)
これら全ての想定や推定が正しいものと仮定し、光和年に応じた日本書紀の神武天皇の記事を拾うと次のようになります。
西暦   後漢光和  日本書紀の記事
一七八  元年 (戊午) 二月十一日浪速国に至る。四月九日孔舎衛坂の戦い。十二月長髄彦を討つ。
一七九  二年(己未)二月残敵を成敗する。
一八〇  三年(庚申)九月二四日正妃を迎える。
一八一  四年(辛酉)正月橿原宮にて即位する。
一八二  五年    論功行賞を行なう。
一八三  六年    
一八四  七年     宇陀の鳥見山で皇祖天神を祀る。
恐らく大倭国での大乱のピークは、西暦一七八年のことで、この年の暮れにも神武天皇は即位できたと思いますが、敢えて一八一年の辛酉の年が来るのを待って、正月早々に天皇が即位したようにも考えられます。
卑弥呼も含め、この頃の年代(西暦)を追うと次のようになります。
一三〇年 神武天皇ご誕生。
一七三年 卑弥呼が、朝鮮・新羅の国に使者を送って、交流を求めました。
一七四年 神武東征にご出発。
一七八年 東征軍とナガスネヒコの軍の戦いがあり、魏には倭国大乱と伝わりました。
一八一年 神武天皇ご即位。
一九九年 神武ご崩御。
二三九年 卑弥呼が使者を帯方郡に派遣し、魏の明帝への奉献を願い、魏の明帝は卑弥呼を親魏倭王とし、金印と銅鏡百枚などを授けました。
二四七年 卑弥呼が使者を帯方郡に派遣、倭国の南方にある狗奴国との交戦を告げました。魏はこれに対し倭国の使者に詔書・黄幢を与え、魏の使者を倭に派遣しました。
二四八年 卑弥呼死去
 耶馬台国の卑弥呼と神武天皇との関係は、敵対関係ではないもののお互いに警戒していたと思われます。ところが九州北部にあった耶馬台国とニギハヤヒの大和国とは、良好な関係を思わせる次のような文献があります。
先代旧事本紀第三・神祇本紀に因れば、
『饒速日尊(にぎはやひのみこと)は天神の御祖の命令を受け天磐船(あめのいわふね)に乗って、河内の国の河上の哮峰(いかるがのみね)に天下った。大倭の国の鳥見(とみ)の白庭山(しらにわのやま)に移った。所謂、空より見た日本の国とはこれである。饒速日尊は長髄彦の娘の御炊屋姫(みかしきひめ)を娶り、懐妊させた。生まれる前に、饒速日尊はお亡くなりに成った。天上に未だ戻っていなかったので、高皇産霊尊は速飄神(はたてのかみ)に「我が神の御子の饒速日尊を葦原中国に使わしたが、疑わしく思うところがある。故に汝、調査して報告せよ」と命じられた。速飄神は命令を受けて降りて来たが、饒速日尊が亡くなられたのを見て天上へ取って返し「神の御子は、お亡くなりに成りました。」と報告を行った。
高皇産霊尊は悲しく思われ、速飄神を遣わし、神の遺体を天上に上げて、そのそばで七日七夜、遊楽を行い、悲しみ悼み天上におさめた。』とあり、両者の友好関係を伝えています。
ニギハヤヒも神武天皇と同じ天孫族で親類関係にありましたが、ニギハヤヒは神武東征以前に北九州より大和に天降っていました。北九州にある地名が大和地方に多いのは、ニギハヤヒが持ち込んだ可能性もあります。以下、これらの推定西暦年と現地調査の結果をもって、神武東征を紐解いていきたいと思います。


因幡の白兎のブログ-岩船神社
ニギハヤヒを祀る磐船神社と奈良県生駒郡北倭村にある饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)の墓



2.東征のご決心
 神武天皇は、ウガヤフキアエズの第四子です。母は玉依姫(たまよりびめ)と申し上げ、海童(わたつみ、海神)の娘でした。天皇は狭野の地(宮崎県諸県郡高原町狭野)でご生誕ゆえに、幼名は狭野命(さののみこと)と申されました。
 天皇は生まれつき賢明で、意志も強固な方でした。御年十五のとき、皇太子になられました。成長されてのち、日向国の吾田邑の吾平津媛(あひらつひめ)を娶られて、手研耳命(たぎしみみのみこと)を儲けられました。
天皇は御年四十五歳になられたとき、高千穂宮でご兄弟や御子たちに、次のような相談をなされました。
「昔、わが天神の高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)らは、この豊葦原瑞穂国の全てを、わが曽祖父・ニニギノミコトに授けられた。そこで曽祖父は、天関(あめのいわくら)を開き、雲路をおしわけ、この地に降臨なされた。この時に、この世はまだ草昧であって、その草昧の中の暗さの中にあっても、ご自身は、正しい道を歩み、この西のはずれの日向を治めておられた。
 その後、わが祖と父の尊は、神の聖(ひじり)として、善政をかさね、恩沢も行きとどき、かくして年月が経過した。曽祖父がこの地に降臨されてからこのかた、今までに長い年月が経っている。しかるに、遥か遠い地方には、なお未だ王徳が行き渡らず、村々にはそれぞれ村長がいて、おのおの境界を分け、相しのぎ、もめている。
 さてまた、余を住まいに日向から尋ねて来た親戚の長老のシオツチノオジ(塩土老翁)から聞いた話によると、東方に美しい国があり、そこは青山が四周をめぐっていて、稲作に適した土地で、しかもその大和国周辺を含めた地域の交易の中心地らしい。その中に天磐船(あまのいわふね)に乗って降臨した者がいたとのことであった。余が考えるに、その地方は、きっと国家統治(あまつひつぎ)の大業を広め、天下に君臨するべき場所で、多分、国の中心に位置するところであろう。その降臨したというのは、あるいは祖父のご兄弟の子のニギハヤヒであろうか。そこに行って都を作ろうと思うが、どうだろうか」と仰せられました。諸皇子は、「理にかなったお話です。私たちもいつもそう思っておりました。早速実行しましょう」と申し上げました。これは西暦一七四年の事です。
【次号へつづく】

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