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因幡の白兎のブログ

日本古代史、神話から日本の古代の真実を紐解きたいと思っております。

ブログを立ち上げながら、記事を掲載していませんでしたが、井上政典氏にリンクしてもらっていますので、「神武天皇東征紀」をシリーズとして掲載することに致しました。興味のある方は訪問していただければ幸甚です。

                      古代史研究会副代表 稲葉 敏(因幡の白兎)




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はじめに


 ご存知の通り、今上天皇は初代神武天皇から数えて125代目となります。2009年11月12日に国立劇場で開催された「ご在位20年記念」で天皇陛下が述べられた次のお言葉に感慨深いものがあります。


 「今日、我が国は様々な課題に直面しています。このような中で、人々が互いに絆(きずな)を大切にし、叡智(えいち)を結集し、相携えて努力することにより、忍耐強く困難を克服していけるよう切に願っています。」そして最後に「ここに、今日の式典をこのように催されたことに対し、厚く感謝の意を表し、国の繁栄と国民の幸せを祈ります。」と述べられました。


 我が国の天皇皇統は「万世一系(ばんせいいっけい)」ですがそれは、永久に一つの皇統が続くことです。それだけでも世界に誇れることですが、一番誇れることはその代々の天皇は「常に日本国の繁栄と国民の幸せを祈っておられること」です。そのことにより、国民は安寧な生活ができ、安心して働くことができるのです。  その皇統初代の神武天皇がどのように日本国を統一(神武東征)されたかを日本書紀、古事記の記述と神武東征のルートにある戦跡・神社・顕彰碑等をたどることにより、日本の皇統の原点を探りたいと思います。


 以下、神武東征はいつ頃あったのか、卑弥呼との関連はないのかを推理し、写真、解説を入れながらシリーズとして紹介していきたいと思います。


関連図書:「誰も書かなかった神武天皇と卑弥呼の関係」 著者 宮内瑞生(古代史研究会代表) 高木書房


1.神武東征の推定西暦年

因幡の白兎のブログ-神武東征の推定西暦年



 上記の表では、古事記に記された十代崇神天皇崩御の年、戊寅を西暦三一八年として、神武天皇までの九代を直線グラフ上で辿って行くと、ご崩御の歳が何時ごろかを想定できますが、それによると凡そ紀元二〇〇年頃となります。ただ、これを確認できる物証は、五瀬命(神武天皇の長兄)か神武天皇のDNA調査か、ご両人の棺の中にあるかも知れない木片等の年代測定しかないかと思いますが、十年百年後にはそのような機会が巡って来るかもと思っています。なお上記の古事記の天皇ご崩御西暦年によれば、当時の天皇の平均的な在位年数は十二年前後です。


 中国の後漢の時代で桓帝と霊帝の間(一四六~一八九年)、倭国は大乱、互いに攻伐しており、暦年に亘って君主がいなかったと『後漢書』東夷伝に記述があり、また『梁書』倭国伝 には、漢の霊帝の光和中(一七八~一八四年)、倭国は乱れ、何年も戦さを続けたので、卑彌呼という一人の女性を共立して王としたとあります。 日本書紀に因れば、神武東征には六年を要し、神武天皇のご兄弟三人が戦死したことが記録されています。また神皇記には「東征の起こりてより平定に至るまで、皇軍の戦病死者皇族七神、将校三十八神、兵卒二万五千余神、内病死者五千余神にして、賊軍の戦病死者、将校六十八賊、内戦病死十三賊、兵卒六万八千余、内病死者一万五千賊なり。また、白木軍(朝鮮族)の戦病死者およそ一万五千余」との記述があります。


 恐らく、この東征戦こそが後漢書にある倭国の大乱だと思われます。 そしてその時期についてですが、梁書にある一七八年から一八四年の間で特記すべきは西暦一八一年が辛酉の年であり、それは正に日本書紀で述べられている「我(神武)東の方を征ちしよりここに六年になりたり」の二年後の即位の年(辛酉の年)と同じではないかと考えました。とする日本書紀に拠れば、ご崩御がそれから十八年後(己卯の年)ですから西暦一九九年で、図の古事記実年代グラフの崩御推定年代と近いものになります。 ただ後漢の書物は、この後に卑弥呼を登場させていますが、大和に上った神武一族は、数代に亘り周辺勢力との折り合いが就くまで、かなりの時間を要していたと思われ、北九州の勢力とは、隔離していたと思います。筑紫の國には卑弥呼がいて、後漢、それに続く魏の國と交わりがあったとしても、多分、大和に居た神武族とは関係なく、神武族は自分達の歴史書には、卑弥呼を書き入れなかったと思います。


 『舊唐書』東夷傳に次のような事が書かれています。倭國者、古倭奴國也。(中略)或云日本舊小國、併倭國之地。 (倭国はもとは倭奴国であった。・・日本(大和)は小国であったが、倭国の地を併合した) この文は「倭国(筑紫の國)は、もとは北九州にある奴という小国であった。・・・日本(大和)も小国ではあったが、大和政権はある時期に筑紫国をも併合してしまった。」と解釈でき、後に併合された卑弥呼のいた筑紫国の歴史は、日本では忘れ去られ、記紀にはその名が出て来ないのかと思います。

【次号へつづく】