心の安定のための人生哲学 第17回 怒りを超えるには① | 上祐史浩

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            心の安定のための人生哲学 第17回

                  怒りを超えるには①
   
 
 さて、人間関係の中で最大の苦しみの一つが、怒り・嫌悪だと思います。今回は、この怒りを超えることについて、お話ししたいと思います。
 
 このテーマに関して、私が何かを皆さんにお話しする立場にあるかは分かりません。ただ、一般の方から、私が数年前に出演したテレビ番組などで、いろいろ言われたにもかかわらず、なぜ怒らずに冷静に対応することができるのかを聞かれることがよくあります。
 
 そこで、その背景となっているものを含めて、お話しすることはできるかなと思います。
 
 
 さて、それでは本題に入ることにしましょう。
 
 第一に、怒りは、相手に対する期待が大きければ強くなります。仏教思想的に言えば、執着・貪りの裏側に嫌悪・怒りがあると表現されます。よって、相手に対する期待を減らすならば、怒りが和らぐということになります。
 
 たとえば、親に対する怒り、親が嫌いである、といった場合が、これに当たるでしょうか。同様に、自分の子供にも同じような心理が働く場合もあると思います。

 自分の親だと、ついつい、色々と自分にしてくれるのが、当たり前になってしまっている。ないし、自分のが親であるがゆえに、他の親に対するのと違って、気づかないうちに、多くを求めている。しかし、これらの欲求は、満たされることがなく、そのため怒りに変わっていく。

 近親憎悪という言葉があります。今でも、殺人は、親族間でもっとも起こると言われます。愛情と憎悪は表裏、可愛さ余って憎さ百倍。自分側の心理が作り出している怒りですね。

 よって、こうした心理状態に自分がないか、自分自身を冷静に客観的な視点から内省してみるべきでしょう。そして、

1.自分の親や子供だから、特別な人間なのではなく、
  多くの不完全な人間の一人であって、
 
2.自分の親や子供よりも、良い親や子供も悪い親や子供も、
  世界には無数にいるし、
 
3.そもそも、自分自身が、多くの不完全な人間の一人である、
 
 といった、当然のことに気づけば、怒りも和らぐのではないでしょうか。そして、これは許しの心につながると思います。
 
 
 仏教的な視点から言えば、自分に近い者に対する執着と、その裏側にある怒りは、自分自身に対する執着から来ているとされます。
 
 人は、他人よりも自分を愛しており、その「自我執着」を土台として、自分に近い存在には、そうでないものよりも執着し、それゆえに怒りも持つことがあるということです。
 
 その意味で、自分と、自分の物、自分に近い者に対して、特別な思いれがあればあるほど、その裏側の怒りは強くなるということになります。
   
 その意味で、自分も、自分の親族も、自分の友人知人も、無数の不完全な人間の一人であるという視点を持てれば(自己相対化)、心は安定することになります。
 
 
 しかし、心理学の一部の学説では、人は、幼少のころは、自分と自分の親を特別視していると言われます。親子の狭い世界の中で、親は自分が求めれば何でもしてくれる絶対的な依存の対象=神であり、自分は神の子であるような意識状態であるというのです。
 
 この理論が正しいければ、本当の意味で、大人になる一つの条件とは、自分、自分の親族・友人知人の「相対化」ということになります。そして、それは怒りを超えて、自分と他人の双方に対して、落ち着いた心で対応できる状態を作ることになります。 
 
 さて、このテーマでお話ししたいことは、もっとたくさんあります。よって、次回(と次々回以降)に続きます。ご期待ください。