言い換えれば、人々は、正に優越感の奪い合い、劣等感の押し付け合い、をしながら、生きているのではないでしょうか。それは、文明が発祥して以来のものですが、現代の競争社会において、ますます増大しているようです。
前回は、これに対して、優劣を超えた幸福感についてお話してきました。自分の長所・幸福の喜びは他者に支えられたものとして感謝し、他と分かち合う。自分の短所・苦しみも、多くの他者が共有していると気づいて、他と分かち合う。
喜びは二人で分かち合えば倍になり、苦しみは二人で分かち合えば半分になるとも言います。そして、この感謝、優しさ、分かち合い=慈悲・博愛による幸福は、落ち着いた、広がりのある、暖かい心による幸福です。
一方、勝利の幸福は、歓喜・エクスタシーを伴うこともあり、非常に強いものですが、それは同時に、敗北の不安・恐怖・激痛などとセットです。言い換えれば、ハイな躁
状態と、ローの鬱状態の波に揺られたような精神状態にあるのです。そのため、心の安定・平安・落ち着きはなかなか得にくい状態になっています。
さて、今回のお話に移りたいと思います。今回は、勝利の幸福感ではなく、分かち合いの幸福感が、21世紀の人類に、非常に重要だということをお話ししたいと思います。というのは、人類存続の脅威となる問題が、これに関係しているからです。
まず、イスラム国のような終末思想をもった原理主義的な宗教のテロ・戦争の問題があります。
前にお話したように、こうしたテロや戦争の背景には、多くの場合、自分を善とし、他を悪とする極端な善悪二元論があります。それを精神面から見れば、誇大妄想と被害妄想、過剰な優越感と劣等感、優等コンプレックスと劣等コンプレックスの問題だと思います。
次に、臨界点という言葉をキーワードにして、この問題をお話ししたいと思います。テロ・戦争の場合は、例えば、イスラム過激派が本格的な大量破壊兵器を
手にした時が、臨界点になると思います。というのは、それは、アメリカでさえ、制御できない、極めて重大な破局をもたらすからです。
彼らは、イスラム教の終末思想が説く善悪の戦いを信じる中で、終末戦争が、真理の世界の到来に必要だという思想を持ちかねません。そうした人たちは、20世紀に大量の核兵器を有して冷戦を形成した米ソとは違って、大量破壊兵器を実際に使う可能性があります。
もちろん、実際には、自分が使えば、相手も使い、大量破壊兵器の戦争に、勝者はいません。暴力の応酬となり、大混乱が始まり、新しい世界・社会などは現れないと思います。
しかし、終末思想を深く信じれば、太陽破壊兵器を使用し、終末を演出することが、神の意志であり、新世界を作ると考える可能性があります。自分たちは、
人類の史上初の終末戦争の担い手であり、特別な存在だと考える人たちには、合理的な思想は働かない可能性があります。オウム真理教も、まさにそうでした。
そして、こうした大量破壊兵器のテロリズムを防ぐ努力をしなければ、21世紀の間に現れる可能性が高いと思います。90年代のオウムさえ、一定の化学兵器を有し、大量製造を前にしていたからです。イスラム国も化学兵器を有しており、使用したという情報もあります。
こうして、前世紀の半ばに大量破壊兵器が現れ、前世期の末に終末思想型の原主義的な宗教のテロリズムが現れた以上は、今世紀の恐らくは半ばまでに、その
二つが一体となった大量破壊兵器によるテロリズムという、現代社会の存続の脅威における臨界点を迎える可能性があると思うのです。
さて、他にも、人々・国々の劣等感や優越感を根本の原因として、21世紀に臨界点を超える可能性がある重大な人類存続の危機があります。しかも、その原因となるもの、そして、その解決策が、本質的には、大量破壊兵器のテロリズムの場合と同じなのです。
温暖化の問題では、まだまだ経済を成長させて先進国に追いつきたい途上国と、自分たちの経済的な優位性を保ちたいのが本音の先進国の間で、利害が対立しています。そのため、なかなか国際協調が進まないことは、ご存じのとおりです。
このまま国際協調が進まずに温暖化が続くうちに、アメリカのNASAの研究によると、状況が突然大きく変化する、ある臨界点(ティッピングポイント)に達する可能性があると言います。
その臨界点とは、南極の氷が解けてしまって、海面水位が急激に上昇し、海沿いにある世界の大都市を襲うというものです。正に21世紀のノアの洪水のような話です。そして、いつ臨界点に達するかは、正確に予測できないようです。
最後に、もう一つ、最近よく言われるようになった人類社会の存続の脅威があります。それは、人工知能(とロボット・アンドロイドの)技術の急速な進展によるものです。
既に、「2045年問題」として言われているように、今世紀の半ばには、コンピュータ技術の発展によって、人工知能が、人間の知能を超えるという技術的な特異点(臨界点)を迎えるという見方があります。
いったん人工知能が人間の知能を超えれば、人間が人工知能を作るのではなく、人工知能が、より優れた人工知能を作ることになります。
いったん出来てしまえば、人工知能は、人間(の子供)と違って、いくらでも生産可能です。さらに24時間・365日動き続けることができます。そのため、時間の経過と共に、指数関数的に、人工知能は、人間の知能を上回って、恐るべきスピードで進化していくとも考えれます。
するとどうなるのでしょうか。ある欧米の大学の研究では、あと20年の間に、現在の米国の雇用の半分は、人工知能(によるロボット)によって奪われてしまうだろうとしています。
もちろん、向こう数十年の間では、人工知能が苦手な分野である芸術などの創造的な仕事は人間が行うでしょう。しかし、そのために必要とされる人間は、ど
のくらいいるのか。すべての人に仕事が与えられるのか、それとも、人間は仕事をする必要がなくなって、ただ遊んでいればいいのか。
また、人工知能が、人間の知能を超えて、多くの仕事が、人間よりも機械がする方がよいという状態になった時に、人間の存在価値とは、いったい何なのでしょうか。仕事以外の何かに、存在価値を見出すことができるのでしょうか。
今現在、特に日本では、仕事を自分の生きがいにしている人が多いと言います。失業は欝病等の精神病、そして自殺に結び付く要因だとされています。仕事と家庭の双方を失った人は、そうでない人の20倍の自殺率であるというデータもあります。
また、人間の存在価値が薄れる一方で、人間の存在には、多くの弊害があるという見方が強くなることはないでしょうか。実際に、人間は、人工知能・ロボット・アンドロイドにはない、様々な欠点があります。
人間が子供を産めば、先天的な重度の障害者や、後に犯罪者・テロリストになる者が、一定の確率で現れるというのが、人類社会の歴史・現実です。ロボットの場合は、こうした不確実性はありません。不良品は破棄したり、取り換えることができます。
人間を育てるには、20年もの長期間の大変な労苦を伴い、育児ノイローゼになる母親もいます。ロボットは、最初から即戦力です。自分の老後の面倒をみてもらうとすれば、子供を産んで育てるより、アンドロイドを買った方がはるかに楽でしょう。
さらに、人間は、生きるためには、毎日他の生き物を殺した結果である食べ物を取らなければなりません。そして、過剰な消費を続ける現代社会は、生物資源を過剰に消費し、多くの生き物を絶命に追い込んでいます。
食べ物以外にも、人間が生きる上では、様々な資源・エネルギーが必要です。アンドロイドの製造と維持にも、一定の資源・エネルギーが必要ですが、人間ほどではないという見方があります。
例えば、今既に、産業の多くの分野で、自動化・オートメーション化が進んでいます。人間が行うよりもコストが少ないからです。さらに人間よりも正確で早くできます。激しい経済競争の中で、お金儲けのためには、人間よりも機械の方が望ましいケースが増え続けています。
最近は、自動車の自動運転の技術開発がよく話題になります。増えている認知症や精神病の人による事故がニュースになっています。機械の方が、人間が運転するよりも安全で正確で速いという時代来るでしょう。
そして、タクシーやトラックやバスの運転のためには、人間を雇うよりも、自動操縦装置に投資した方が安上がりとなり、経済競争での優位を確保するために、人間の運転手が解雇される日も来るかもしれません。
そして、人工知能やアンドロイド技術で、経済性や安全性など、様々な点において、人間が機械に負ける分野は、どんどん増えていくと思います。人間同士の経済競争の結果として、人間の労働者が機械の労働に負けるのです。
ある途上国を訪問した日本人が、現地の人に、「なぜここには自動販売機がないのか」と尋ねると、「そんなことをしたら、人間が営むお店がなくなってしまうじゃないか」と言われたそうです。
しかし、今現在、グローバル経済・市場原理主義の波が、先進国から途上国を含めた全世界に広がっています。経済的な利益の追求が至上の価値であり続ければ、途上国でも、いつまでも人間の雇用機会を守ることはできないかもしれません。
次回は、この問題をもっと突き詰めたいと思います。
※お知らせ
今週28日(土)は千葉で、3月1日(日)は東京は都内の一般会議室で講話会を行ないます。上記の内容を中心で講話を行う予定です。
詳しくはこちらをご参照ください。
http://www.joyu.jp/hikarinowa/news/05/144422831.html