第8回 優劣を超える、感謝・優しさ・分かち合いの幸福 仏教心理学 | 上祐史浩

上祐史浩

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 前回までに、各種のテロ・犯罪や戦争の背景に、劣等感・優越感や、劣等コンプレックス・優等コンプレックス、さらには、それらの集団心理の形成についてお話ししてきました。

 しかし、これは、テロ・犯罪・戦争の背景であるだけでなく、個人の人格障害・精神病・自殺、そして、日常の人間関係の問題の背景でもあると思います。


 例えば、強い劣等感・劣等コンプレックスは、過剰な羞恥心、不安神経症、鬱病といった精神病理を生じさせ、引きこもりや自殺といった行動に繋がることは、容易に理解できると思います。


 また、劣等感から逃げるために、独りよがりの優越感を形成する優等コンプレックスは、他人に対する合理的ではない批判・攻撃・復讐・迷惑・おせっかいなどに繋がると思います。いわゆる自己チューとかKYなどと言われるケースにも関係すると思います。


 いずれも、自分と他人の関係をそのままに受け止められないので、周囲・社会への適応不全です。そして、これが集団的になったものの一つが、カルト集団だと思います。


 そこで、こうした問題を和らげるために、自分と他人を比較し、優れていれば幸福であり、劣っていれば不幸であるというのとは異なる考え方・幸福感があってもいいのではないでしょう。


 現代の競争社会の中では、勝利による幸福と敗北による苦しみが非常に強調されています。これは、宗教にたとえば、勝利教、勝利原理主義です。そして、これとは異なる幸福感・幸福哲学があっても良いと思うのです。


 そして、結論を先に言えば、それは、他に勝って得る喜び・幸福ではなく、他を愛して得る喜び・幸福だと思います。それは、仏教が説く慈悲とか、キリスト教が説く博愛といったものです。


 それは、自分と他人が、同時に幸福になるものであり、自分が勝って得る喜びの裏に、自分に負けた他が苦しむというものではありません。すなわち、自他一体の幸福です。


 その心の状態は、優越感の喜びと劣等感の苦しみ、すなわち、躁状態の喜びと鬱状態の苦しみがないために、静まった落ち着いた状態です。


 さらに、他を愛することによる心の広がり・あたたかさがあります。静まった、広がった、暖かい心の状態です。これが高度の鍛え上げられたものが、大慈悲・博愛とされるものだと思います。


 この幸福感(幸福観)の土台になるものとして、仏教の心理学とされる唯識思想を紹介したいと思います。


 実は、東洋思想の仏教は、西洋の心理学よりも、1000年ほども早く、無意識(潜在意識)を含めた、人間の心の分析を詳細になしています。心の科学は、西洋に先駆けた、東洋の智恵の典型です。


 さて、その仏教の心理学では、優越感は「慢」などと表現される煩悩の一種とされています。そして、それは、自分と他人の関係をふくめた、物の見方、世界の見方が、正しくないが故に生じるものだとしているのです。


 具体的に言うと、少し難しい話になりますが、
1.自分と他人・他者は、実際には、別々のものではなく繋がっていて、
  それぞれに固定した実体はないのに、
2.普通の人は、他人・他者から独立した、固定的な実体をもった自分
  というものがあると錯覚する(我痴・我見)。
3.その錯覚に基づいて、自分は偉い・優れているという慢心(我慢)や、
  自分に対する過剰な愛着(我愛)が生じる
 などと説かれます。


 例えば、自分が他人よりも優れているという認識について考えてみると、優れている自分があっても、それは自分だけの力で生じているのではなく、他人・他者・万物に支えられて存在しています。


 実際、どんな人も、自分だけの力だけでは、何ごともなすことはできません。それはおろか、自分というもの自体が、自分の力ではなく、他者によって生み出され、育てられたものです。成人しても、他者・万物によって日々支えられて生きています。


 日々の食べ物は、他の生き物から来たものであり、現代の生活のあらゆる部分は、国内外の無数の人々との分業によって成立していますし、そもそも、空気や水や遠く太陽からの陽の光が無ければ生きることはできません。


 そして、美人であっても、自分の力・努力で、そうなったのではなく、親がそのように生んだだけです。では親の力かというと、親も運よくその様に生むことができたのです。親も美人であったとしても、親の親によって、その様に生まれたに過ぎません。

 
 学力や運動能力は、生まれつきではなく、努力によって獲得されたものだと主張する人もいるかもしれません。しかし、よく考えれば、努力できるのも生まれ つきの才能であったり、親や教師などに努力の大切さを教えられたり、努力できる環境を与えられた結果でもあるでしょう。


 こうして、どんなに優れた特性も、その人自身の力だけで生じた、その人だけのものではなく、他人・他者・全体との関係の中で、その人に現れたものに過ぎ ないと思います。表現を変えれば。全体が有している良い特性が、その人と所に現れたものだと言うことができると思います。


だとすれば、自分に優れた点・長所があっても、
1.それを自分だけのものだという慢心に陥らず、
2.それは他者・万物に支えられて与えられた幸運だと考えて感謝し、
3.その恩返しとして、自分の幸福を他者と分かち合う
 という生き方があると思います。
 
 そして、こうして感謝に基づいて、他に幸福を分け与えることが、仏教が説く慈悲の心の中の「慈の心」とされます。


 次に、自分に劣った点・欠点があっても、
1.それを自分だけのことだと考えて、卑屈に陥るのではなく、
2.本当の幸福の道は、他を愛する心であって、
  自分と同じ欠点がある人が無数に存在することを意識し、
3.その人たちの気持ちを理解し、共に乗り越えるために、
  自分の欠点を活かして長所に、卑屈を慈悲の源に変えていく
 という生き方があると思います。


 そして、こうして他の苦しみを悲しんで取り除く心の働きが、慈悲の心の「悲の心」とされます。


 これは、過剰な優越感・劣等感に陥らずに、長所も短所も、他者への愛(慈悲)の心を養うことに結び付けて、優越感の興奮と劣等感の落ち込みという波のある心を乗り越え、静まった、広がった、暖かい心を培おうとするものです。


 前回も述べましたが、他に勝って優越感を抱く人こそが、優れているのでは必ずしもないと思います。「優」という漢字の通り、優しさ=慈悲の心が、人の優れた徳性=幸福の道として、非常に重要な要素だと思います。

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