すっかり雪景色となりました!(子供達は大喜び きゃー

薪ストーブ調達したばかりなので、今年が初めてですが、

しんしんと降る雪に薪ストーブってピッタリですね!

もうクリスマスみたいな雰囲気あります。音符
(こんな感じ↓↓



これじゃ、ちょっと伝わらないかな。苦笑

ハート②ハート②ハート②ハート②ハート②ハート②ハート②ハート②ハート②ハート②ハート②ハート②ハート②ハート②ハート②ハート②ハート②ハート②ハート②ハート②ハート②ハート②ハート②


て、今日はちょっと面白い話をシェアしたいと思います。

先週末参加した女性だけのクリスチャンの「修養会」で

ゲストスピーカーのシーラさんの本一式(7冊)、買っちゃいました。


(本好きな私にとって、それらをパスすることはとてもできなかったのです。えへへ…



その中の一冊、「To Love, Honor, and Vacuum」
(この題名すごく気に入ってます!LOVE↓↓



を読み始めたのですが、第一章でとても面白いところがあったので、

これはブログでシェアしなくては!と思ったのです。


きらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきら

アメリカテキサス州のオースティンに住んでいるある匿名のお母さんが

子育てから以下の事を学んだとネットでシェアしたそうです。



1、ングサイズのウォーターベッドには、

2000平方フィート(約186平方メートル)のサイズの家の床を

4インチ貯めるほどの水が入っている。


2、にたまった埃にヘアースプレーをかけて、

その上をローラーブレードで通ると、火が出る。


3、歳児の声は、200人の大人のいる

混雑したレストランの雑音よりも大きい。


4、井扇風機に引っ掛けた

の首縄からぶら下がった

バットマンの下着と

スーパーマンのマントを付けた

体重42ポンドの男の子をサポートできるほど

天井扇風機のモーターはパワフルではない。

でも、その同じモーターは、

400平方フィート(約37平方メートル)ある

部屋のすべての壁にペンキを散らばすことができる。


5、
6歳の大人の男は「そんなの映画の中でだけありうることだ。」

と言っているのにも関わらず、

6歳児は(昔の)火打ち石銃で火起こしができる



6、りの日でも虫眼鏡で火をつけることができる。


7、特定のレゴは4歳児の消化器官を通ることができる。


8、間接着剤は永遠に付着する。


9、
れだけプールにゼリーを入れても、水の上を歩くことはできない。


10、ールのフィルターはゼリーを好まない。


11、レビのコマーシャルでは可能でも、

ビデオカセットデッキーは

「ピーナッツバターとジャムのサンドイッチ」を

イジェクトすることはできない。


12、しいと思う匂いののもとがなんなのか、

たぶん知りたくはないだろう。


13、ーブンをつける前は必ず中をチェックすること。


14、ラスチックのおもちゃはオーブンを好まない。


15、ースティンの消防車は5分でやってくる。


きらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきら

ユーモアのあるお母さんだと思いませんか?

これらを一つも経験していない私は

子育てって大変!って言う資格もないような気がしてきました。笑



私が「学んだこと」って言えば、

1、まぶたは鋭いものに当たらなくとも、

衝突の力が強い場合は裂ける。


2、アカウントを削除し、使わなくなった古い携帯でも

911(110番)はかけられる。


3、10歳の子供はマイナス10℃でも

ジャケットなしで外で遊べる。しかも全く寒くない。


今思い出せるのはこのくらいかな。


子育ては大変だけど、どっちみち通る道なら

ユーモアを持って、わっはっは!って笑って

乗り越える方がずっといいなと思いました。あは♪



自分に当てはまる形容詞、考えたことありますか?

キラキラ3キラキラ3キラキラ3キラキラ3キラキラ3キラキラ3キラキラ3キラキラ3キラキラ3キラキラ3キラキラ3キラキラ3キラキラ3キラキラ3キラキラ3キラキラ3キラキラ3キラキラ3キラキラ3キラキラ3キラキラ3キラキラ3キラキラ3

週末参加したリトリート(クリスチャンのカンファレンスみたいなイベント。
日本語ではなんって言うんだろう、、、? 知っている人いたら、教えて下さい!にへ

いろんなこと考えさせられました。


金曜日の夜から開催されたこのリトリート、

最初から深いところを突く!

そのうちの一トピックをこのエントリーで取り上げたいと思います。


日本では謙虚であることに美徳があるので、

どんなに自分に自信を持っていても、一般的に

自分の良い所をべらべら自慢することはありませんよね。

必要以上に「謙虚」になって、

明らかに誰から見ても秀でているのに、

「そんなことない。」って言っちゃいますよね。


謙虚ならいいのですが、

みんなから見ていいと思うことでも、

本当に心から「そんなことない」って自分を否定する心には、

赤信号が光っているのと同じで「要注意」だと思うのです。


そんな時、よくよく考えてみると、

色んなものに後を引っ張られて、全力疾走することはもちろんのこと、

思うように前に進むことさえ出来ないでいるのではないでしょうか?


これらの樹の枝には私達を束縛し、自由を奪う可能性のあるもの

が結ばれています。

㊦㊦( ̄^ ̄



罪悪感、衝突、失敗、挫折、不安、怒り、虐待、悲しみ、過食、家庭内暴力、

羞恥心、自己嫌悪であったりと、私たちを束縛するものは数えきれないほどあります。



どうしたら、これらから解放され、本当に自由になれるのでしょう?


嫌だと思いつつ、実は私たちは慣れた環境を心地よく思っているので、

変化を好まないのです。または、自分ではどうすることも出来ない

という諦めが有るからかもしれません。


このリトリートのスピーカーであったシーラさんは

嫌だと思う自分を過去のものとして放下し、

これらの束縛から解放され、自由に前に進む方法を

思い出させてくれました。


それは、どんなに自分はそうする値がないと思っていても

自分の思い描く自分
を捨てて、

神様の目に映る私たちを事実として

受け入れることにあるのです。


私達がどんなんでも、

神にとっては愛おしいこどもたちです。

神の目には私達は美しく映っているのです。

独り子のイエスを犠牲にしてまで

私達との関係の修復を望んだ神にとっては

私達一人一人は価値のある特別な存在なのです。


「心の中で思い描くネガティブな自分を象徴したようなボロ着ではなく、

代わりに神様が用意してくれた綺麗な着物を身にまといましょう!」

シーラさんの言葉に励まされ、希望を感じました。



前の記事(「おおかみこどもの雨と雪」)でルカ書第15章に書かれてある息子と父親の話を紹介しました。 (ルカ書第15章全文はこちら


その中の一部分(18節から23節)を詳しく見てみますと、こう書かれてあります。


、、、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。
19
 もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。
20 そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。
21 むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。
22 しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。
23 また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。

(ルカ書第5章18~22節)


青い部分を見比べて見ると分るのですが、

この放蕩息子は父親の所に戻って、

「雇用者として雇ってもらえないか」と聞く予定でした。

ところが、彼の父親は息子が

「 どうぞ、雇人のひとり同様にしてください 

と言う前に

「さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。
23 また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。」


と遮って、息子の帰宅を心から喜んだのです。


これが神の心です。何の報いを求めることなく、

ただ、自分の子供達が自分のもとに戻ってくるのを

心から望んで、待っているのです。

放蕩した息子でも愛おしいのです。


この息子がしたことでたった一つ正しい事は

父親の差し出した「最上の着物、指輪、と履物」を

ありがたく受け取ったことです。

いくら父親があげたくても

この息子が拒否したなら、「いや、ボロ着でいい!」

と頑固に聞かなかったとしたら、前のままで何も変わりませんよね。


神は私たち一人一人のために

「最上の着物、指輪、と履物」を用意してくれています。

自分が自分に着させていた「ボロ着」を脱ぎ捨て

神が用意してくれた私達にふさわしいと思われる

「最上の着物、指輪、と履物」を身にまとってみませんか?


心から自由になったという解放感に一歩一歩

近づいていくでしょう。

神の恵みがありますように。




注:とても長いエントリーとなってしまいました。

カっ!ってくること、

何日も悶々とするくらい引きずる怒り、

そして憎しみを覚えるような怒り。

人間なら「怒り」を経験しなかった人はいないと思います。



小学校の卒業アルバムの自己紹介の欄で

短所は「短気なところ」と書いたくらい

幼いながら自分で分っていたのですが、

「短気である」の真の底に隠されていた

自分の中にある本当に醜いこの部分と面する事になったのは

母になってからです。


自分の中のあんなにも怒りがあったのに

正直自分でも怖くなりました。

積もった怒りは自然と抵抗のできない子供達へと向けられたのは

言うまでもありません。

毎日のように「爆発」していたこの私。

子供の目に「恐れ」の色を見たものの、

コントロールできなかった怒りという気持ち。


自己嫌悪に陥り、罪悪感に満ちた日々であったのですが、

ありがたい事に神様は少しずつ私を変えてくれました。

もちろん、私も人間ですから「怒り」とは縁をきることができないのですが、

爆発することもまれとなった今日この頃、感謝の気持ちでいっぱいです。



爆発するような怒りが習慣的になっていたころ、

「今度は怒らないように。」と自分に言い聞かせていたのですが、

全然役に立ちませんでした。



「神様、どうか私がもっと忍耐強くいられますように。」

と祈っていましたが、クリスチャンならわかると思いますが、

私達のお祈りを神は時にはユーモアをもって答えてくれます。

「忍耐強さをくれますように」と祈ると、

次の日には忍耐強い人になっているのではなく、

もっと忍耐強くなれるような試練を与えてくれる場合も多々あります。笑

私の場合はそんな感じでした。

本音を言うと、「忍耐強くなるように」と祈らなくなりました。笑)


それが今朝、どうして私は怒りを抑える事ができなかったのか、分りました。

最近毎朝読んでいる「Praying for Purpose for women」

というデーリーデボーションで、今日は

「怒りの原因」について書いてありました。


それで気づいたのですが、

「怒り」という感情の裏には

違う感情が隠されていて、本当の怒りの原因は

怒りを感じる人に対してでも、

怒りを感じることに対してでもなく、

嫉妬、疲労、不安、などといった

他の感情にあるのだということ。


「怒り」を感じるのは人間の

傷つくこと、裏切られること、などから

自分の守るための自己防衛だということを著者は言っていました。


それで考えてみたのですが、

自分がかつてあんなにも怒りを感じた原因は何かと。

そうすると、今になってですが、

はっきりと原因が見えてきたのです。


私の場合、

フラストレーション、失望、疲労、無力感、そして不安と心配 が

主な原因だったということに気づきました。

これらの原因に気づかずに

「怒らないでおこう。怒らないでおこう。」

と自己暗示しても効く訳ありませんよね。



これらの原因に気づいて、

一つ一つに対して

解決、改善方法を見つけていたなら、

もっと早くに解放されていたはずです。


例えば、フラストレーション。

「なんで、あなたはこうなの?」

「どうしてもっと私みたいになれないの?!」

夫に対しても、子供に対してもそうでしたが、

自分の方が正しくて相手が間違っている、

または自分の方法の方がずっといい!

無意識的ではありましたが、

そんな優等感みたいなのがあったので、

自分の思いのままにならないことにいらだちを覚えました。


「ありのままの彼ら」を受け入れられたのなら、

きっともっと毎日が楽しかったでしょう。

あら探しをするのではなく、

彼らにあって、私にない良いところ

焦点をおくことができたのなら、

自分がどんなに祝福されたものか

気づいていたと思うのです。


そして、失望。

前のブログ’でも触れたことありますが、

人は他人に自分の願望を満たしてもらうことはできません。

私達の心を満タンにしてくれるのは神のみにできることなのです。

私は夫に「自分の理想の夫像」をはめようとしていました。

ですから、心の中でずぅ~っと描いてきた

「理想の夫」とはかけ離れた人だという現実を見せられる度に

失望感が大きくなっていきました。

自分の願望(こういう人と結婚するという)を満たしてくれない夫に

腹が立っていくばかりでした。



「夫にどうやって幸せにしてもらえるか」

という点にしか目がいかなくて、

「どうしたら、この人を幸せにできるか」

と考えることなんか思いもつきませんでした。

本当に自己中心な私でした。

幸い、神はこんな私を切り捨てることなく、

辛抱強く教えてくれました。

「本当の幸せは他人を幸せにする過程に得られるもの」だということ。


先のこの二つの点に関連しているのですが、

フラストレーションと失望感をずっと経験していると、

最終的には無力感に達します。

自分ではどうにもならない現実に対して

無力を感じるのです。

無力感は私たちから希望を奪い取ります。

何をも変える事ができないのなら

何かが変わるという希望をもてません。

私の怒りはそこにもありました。


でも、この時も神様はそばにいてくれました。

そして「イエス」に希望があるということを指摘してくれました。

聖書にある御言葉と祈りの時間から

イエスについて知れば知るほど

身近に感じられるようになればなるほど

希望が湧いてきただけではなく、

自分の心も変わっていきました。


ずっと自己中心だったために見えなかった

夫と子供の良さ、自分は必要以上に恵まれている

ということにやっと気づき始めたのです。


その他にも子供の将来を心配することから来る「怒り」。

成功した人生を送ってほしい!


という親としての願望からくる思いから

自分の言う事を守らない我が子をみると

心配や不安でどうしようもなくなる。


私の場合、神は愛であると知ることで

この不安から少しずつ解放されていきました。

私が愛している以上に神は我が子を愛している。

という事実に安心感を覚えました。


最後に私の「爆発的な怒り」の背後には

「疲労」という大きな原因がありました。

これは私が休む時間を削って

自分の事に没頭することに原因があったのですが、

寝不足で頭がボーっとしていたら、

誰でも苛立ちやすくなりますよね。

この改善法はもちろん、十分に休みをとって

最善の状態を保つことにあるのですが、

私にとっては難題でした。

ただ単に休みを取るという簡単な表面の解決法ではなく、

「自分のやりたいことよりも、
家族を優先する」

という自己否定をしなければならないからです。


これだけはぁ、、、と粘っていたのですが、

とうとう、折れました。

十分に睡眠をとった次の日の気持ちの良さ!

どうりで火山のように爆発していたわけだ!

と納得できました。


こんな感じで「怒り」という感情の奥には

本当の原因となる 他の「感情」があるのです。

何度も何度も同じ事で怒ってしまう、

状態が改善されない!

と悩んでいる方、もっと奥深くに本当の原因がないか

探してみたらどうでしょうか?



(こんなに長くなってしまい、すみません。。。
汗

最後まで読んでくれた方達に
本当に感謝しています。

お疲れさまでした。
苦笑










週末は女性だけの隠遁イベント(リトリート)に参加してきました。

郊外の小さな街にあるリトリートセンターに

知り合い、友達、女性6人で仲良くお部屋をシェアして

楽しく、充実した週末を過ごしました。




二段ベットのある部屋に泊まるのはいつ以来だろう?

結婚後、家族以外の人と外宿するのも

久しぶりだったし、一人を除いて同行した方達は

顔見知りの程度で、年齢も結構離れている方達もいたので、

正直、
どうなるか?とちょっと不安でしたが、

そんな人達とも絆を深める事ができて、素晴らしい週末でした。


修学旅行のように夜遅くまで語ったり、

カードゲームであそんだり、大自然の中を散歩したり、

静かな読書の時間や、デザートとコーヒー、お茶でのティータイム

などなど、毎日家族のことで忙しく駆け回っている

小さい子持ちの私達にとってはリラックスした

ご褒美のような週末でもありました。





でも、それ以上にもっと素晴らしかったのは

精神的に、リラックスできて、満足できたことです。

私の中のスピリチュアルな部分が満たされました。

賛美歌で神を讃える 上げ上げ



自分の中にある罪悪感、挫折感、自分に対する叱責や

他のネガティブなもの  ㊦㊦( ̄^ ̄


を完全に放下し、それらから解放され、本当の自由を得る。


このリトリートのトピックでした。

学んだこと、悟ったこと、次回からのブログで綴っていきたいと思っています。
                      



しぶりに邦画を見ました!

軽い気持ちで図書館から借りてきた

『おおかみこどもの雨と雪』。

とぉ~っても深かったですね。

学ぶこと、悟った事たくさんありました。



一回目は日本語で観たのですが、

子供達と英語吹き替えで再び観た時に

一回目の時に見逃していた色んなメッセージが

ポンポン出てきました。

(いい!って思ったものは一回きりで終わらせたらいけないですね!)


お母さんの花の優しさと強さは

もちろん最初からインパクトがあって、

「見習わなきゃ!」と思いましたが、

(おかげで今日の私はいつもよりおしとやかで、優しい母です。笑)

雪と雨がそれぞれ自分の進む道を選択するのを

ずっと優しく見守る花に「母の模範生」的なものを見ました。


そうですよね。私達、親としての責任は

子供達が選んだ道を見守り、サポートすることなんですよね。



もちろん、子供が選んだからといって何事も賛成できる訳ではないし、

間違った選択をすることもあるでしょう。

でも、そんな時、アジア文化によくある「勘当」をするのではなく、

賛成はできないものの、「この家にいつでも帰って来ていいよ」

という態度を親は持たなければいけないと私は思います。


そもそも、勘当するというのは「親の自分勝手」の表現だと

私は思います。自分の思うようにならないから勘当する。

本当に子供のことを思っているのなら、心から愛しているのなら、

勘当することはもっと子供を傷つけるということに気づく筈です。

そう思いませんか?


聖書の「ルカによる福音書」にこんなストーリーが記されています。


「ある人に、ふたりのむすこがあった。
ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。 

それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。


何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。


そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。


彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。


そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。


立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。


もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。


そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。


むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。


しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。


また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。


このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。」

(ルカによる福音書第15章11節~24節)


自分がまだ生きているのに「財産をくれ!」と言われて、

放蕩に身を持ち崩して財産を使い果たした息子を

この父親のように受け入れられることは

容易なことではないと思います。


怒りや情けなさ、こんな息子を持って恥ずかしい

という感情の方が自然と出てきますよね。

ですが、この父親のように
息子を無条件に愛するのが

私たち親に与えられた課題なのではないでしょうか?


ただし、「無条件に愛する事」イコール「全部のことに賛成すること」

とは違うと思います。

逆に、「賛成できない」イコール「愛せない」でもないと思います。



先日のブログ(
こちらでも触れましたが、

「愛」というのは気持ちではなく、
「愛する決心」です。

子供がどんな選択をしようと

親として、無条件に愛することができます。

もちろん簡単なことではありません。


でも、無条件に愛することを心がけて、努力をする親が多くなれば、

「愛されている」と感じる子供も増えるでしょう。

自分は愛されている、尊重されている。

息子達がそう信じて疑わない子育てをしたいですね。

そして、世界中にそう感じる子供が一人でも増えることを願って。