訪問くださって一緒に時間をシェアしてくださってありがとうございます。
私テレビを見ない人なのですが映画はよく見ます。
映画をみていると、たくさんの気づきが起こります。
気づきが起こるために見ているわけではなく、楽しいから見ているのですが自然にその時の自分にとって大切な気づきが起こりますよね。
先日見た「How i live now」(私は生きていける)という映画
生後間もなく母親がなくなり複雑な家庭環境で育ってきた16歳の少女デイジー(シアーシャ・ローナン)。
彼女は会ったことのないいとこたちと過ごすため、1人でニューヨークからイギリスへとやってくる。
純真ないとこたちと触れ合い、自意識過剰で反抗的だったデイジーの心境に変化が生じます。
いとこの長兄エディ(ジョージ・マッケイ)はデイジーの心に寄り添いデイジーは彼に惹かれるようになります。
そんな中、ロンドンで核爆発テロが起き、第3次世界大戦が勃発しデイジーたちは軍によって離れ離れになってしまう。
戦争について描かれた映画でしたが主人公の少女の心が変化しいてゆくというお話しでした。
他者とのコミュニケーションをいっさい遮断するかのようにヘッドフォンをつけ、髪をブロンドに染めて厚化粧をして鼻にピアスを開けた、いかにも不機嫌そうな主人公が
恋愛をし、小さな子どもに頼られる経験をすることで、身構えがほどけ、愛する他者が待つはずの場所へともどっていくために歩き続けるます。
そしてエディーに再開するのですが、彼は瀕死の状態でデイジーは必死で看病をします。
身体の傷は良くなってゆくのですが、兄弟をなくし心に深い傷を抱えた彼は心を閉ざします。
そしてこころに深い傷をもったエディーに寄り添っていく姿がとても心打たれました。
映画の最初のうちはマインドの声が頭の中で話し続け、周りとの間に壁を作ろうと必死で身構えた少女でしたが
「今まで私の願いをくだらないことにむけていた、でもこれからは大切なもののために使おう」と決意しているデイジーの姿に心打たれました。
今日は昨日くださったコメントの内容を一緒に考えてみたいです。
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学ぶ必要がないとおっしゃっていますが、でも、、ある程度学がないと生きていけないと思います。
わたしは自分には常識がないと思っています。
勉強しても、バカだから身には付いていないようで恥ずかしい思いをします。
これは思い込みでしょうか。
結局要領がいい人がうまくいくんだと思っています
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コメントくださってありがとうございます。
そうですよね。私もずっと同じように思っていました。
この社会がそのように学があるほうが人生上手く生きていけると教えてくれて来たからでしょうね。
もし学ぶことをしたいと感じるのであれば、自分の感じるまま進むことが大切だと思います。
起こることはすべて完全に起こっていますからね。
もしかしたら学び続けるうちに、何かが違うと感じるときが来るかもしれません。来ないかもしれません。
幸せと知識は無関係なことに気づくことが起こるかもしれません。
「わたしは自分には常識がないと思っています。勉強しても、バカだから身には付いていないようで恥ずかしい思いをします。これは思い込みでしょうか。」
ということでしたが、何が思い込みか?というところだと思うんです。
常識というのが最初に何を指して常識と信じているのか?
そこを調べてみると、実はそこにはハッキリとしたものが見つからないのに気づけるかもしれません。
また勉強してもバカだから身についていないようで恥ずかしい思いをする、ということでしたが、ここも身についていないようだ、と感じているのも調べてみると違うのに気づくかもしれません。
誰かと比べているのか?何と比べているのか?それらを少し調べてみると、はっきりとした何かが見つからないかもしれません。
私達のマインド(思考)というのは、いつも「不十分」「まだまだ」と感じさせるようなんです。
(※分離しているという感覚によって不十分と感じるようです)
このために私達どれほど頑張っても、まだまだと感じるようなんです。
ですから、このマインドの考えを採用しているときずっと「満たされないでもっと」頑張る人生になってしまうようです。
ですから思い込みがあるとしたら、マインドの考えだと思います。
また「結局要領がいい人がうまくいくんだと思っています」ということでしたが、ここもマインドの考えが湧いているのだと思いますが、それを信じるとそのように見えるんですよね。
そしてこの思考を信じるのは、やっぱり「不十分」という根底にある深い信念が大元になっているようなんです。
その「不十分」という思い込みが「よりよくなる必要がある」という思考となり私達頑張ります。
しかし頑張っても「不十分」という思い込みによって満たされないで頑張る人生が続くようです。
思考や感情は現れては消えるものなのですが、それを捕まえて採用するときにそこで問題と感じるようです。
私達は事実という体験ではなく、考えをとても大切にしてしまうようなんです。
このために事実を全く見ていないことが多くて、考えに囚われ続けてしまうようです。
考えは言葉を使っていると思うのですが、この言葉というのは便利な道具ですが、事実を言葉にしただけであり、事実とは全く違うんですよね。
壮大な自然を感じてそれを言葉にしようとするときその体験を言葉にできないということが分かると思います。
そのように言葉というのは真実とは離れてしまうんですよね。
ですから、考えにあまり囚われないようになると、そこにある真の体験が始まるかもしれません。
このようにお伝えするとまた考えに囚われないようにと頑張ったりしてしまうかもしれません。
そうではなく、あまり深刻に考えないで、体験を楽しんでみようかな?
くらいにゆる~~ってなると、考えで隠れていたこの瞬間の平安と喜びの体験が起こるかもしれません
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