仏、釈尊は「法華経」 をお説きになるまでの四十余年間に方便の諸経を説かれた。 釈尊は衆生の能力に不同があることを知っておられたので、さまざまな喩や方便をもって説かれたのであった。妙法蓮華経の第五章の 薬草喩品をご説明します
◎他人を救う心
仏は続けて、天上界の者、人間界の者、阿修羅界の者すべての人たちに自分のところへ来るがよい、と呼びかけた 阿修羅とは、悪神のことで絶えず闘争をする鬼神のことである
悪神であり、鬼神の住む世界の者も説法を聞きに来なさいと呼びかけたのは、悪神や鬼神までも説得できる力を仏は持っているからである
衆生の中には、能力の優れたものもいれば、劣った者もいる。また、努力精進する者もいれば、怠けてばかりの者もいる
仏はそれぞれの人を見分けて、その人に合うように教えを説いた
仏の教えを聞いた人々は「現世安穏にして、後に善処に生じ」 ることができるようになった
現世安穏とは「法華経」 を信じれば火事にも水害にも遭わないというようなことではなく、心の問題、心の持ち方にほかならない。どのような逆境にあっても決して乱れることがない心の持ち方によって、安穏であることができるのである。
この世が安穏であるとは、心の持ちよう、心のありようである
どんな逆境に直面しても動じなければ未来には善処に生まれ変わることができる。
仏の教えを聞けば心の障り、妨げを除くことができる。心が安穏でないとさまざまな障害がでてくる
仏の教えを聞いた衆生はその人その人の能力に応じて仏の教えを理解することができる 草木が大きさ種類が異なってもそれ相応に雨の恵みを受けて成長発育を遂げるようなものである
相手に応じて仏は浅い教えから深い教えを説いていく
教えそのものは、一相一味であっても、説き方には順序がある。それが、解脱相(げだつそう)、離相(りそう)、滅相(めっそう)である
解脱相… 生死の迷いを離れることである。人は必ず死ぬものであり、一切のものは無常であることを知る。それによって、この人生の営みは幻であることをはっきり悟ることである。
離相…解脱相にとどまらず、人生の苦しみのたうっている人たちをすくおうと、悲願を起こすこと。自分だけが悟りの環境にいては駄目なのである。
滅相…自他の区別を離れ、自他平等になることである。母親が赤ちゃんに乳を飲ませる時のように、なんの報酬も求めない慈悲の心があるだけである。
仏の教えは一味平等(いちみびょうどう)であるが、解脱相、離相、滅相とだんだん高い境地に登るように説き、あらゆる人を救おうとする。そして、最後には「一切種智」(いっさいしゅち) に到達する
一切種智とは、全てのものを平等に観る智慧と、現実の差別(しゃべつ)をどこまでも細かく見る智慧の両面を備えた仏の智慧である
続きは次回…
追記、 自分中には、もう一人の人間が居ることを自覚できて、本当の修行が始まります。パワーの善が強い人ほど、悪のパワーも匹敵します。これは宇宙の法則ですが、プラスとマイナスが同じ力ということです。 たとえば1000人を殺す力のある人は1000人を助ける力があるということですね。 この法則がある以上、各々テーマは違いますが、その答えは、法華経の中に書かれています(^_-)-☆
法華経は釈尊の肉声の教え、経典です。 是非とも、
釈尊のご慈悲を体験してみてください(西洲)
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真実は一つ!!