届かぬ『神の手』 ~神人合一への遠き道のり | 神人一致の癒奏術・響庵

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神に手を伸ばす・・・ということは「神に近づく」ということである。

 

ただ神社に行き、呼ばれたと喜んで、整えられた場所に行っても「神に近づく」ことなど出来ない。

神に近づいているのは、その場を綺麗に整えている者であり、「その者」への敬意無くして神に何を祈ったところで、神に手は届かない。

そんなことを何年、何十年続けようと届きはしない。

 

 

神とは何ぞ?

 

八百万様々な神が在る。

そのどれが自分の神であるか?

 

人生の中で自分は何をしている?

 

そこに神の直流がある。

 

 

穢れを祓う神に手が届くのは、穢れを祓う者のみである。

結びの神に手が届くのは、結びを行う者のみである。

労わりの神に手が届くのは、労わりねぎらう者のみである。

喜びを与える神に手が届くのは、喜びを与える者のみである。

 

 

人の身で散々修練して、報われることの無い行いを続けて、ようやく神に手が届く。

 

届いた手を引かれれば、今度は神世の修行の始まり。

人の身ではなく「霊の身」に於いて同じことを行う。

神が当たり前のように「それ」をする如く、我も当たり前のように「それ」を実行する。

だからその力が与えられる。

 

 

神人合一とは人の身で神となること。

そして、「神となる」とは当たり前のように「それ」をすることである。

 

 

神に手を伸ばす者があまりにも少ない。

綺麗に整えられた神社へ赴き、何かしたつもりになって気持ちよくなって、それで神に仕えているなどと言う。

 

気持ちよくなれるのは、その場を整えている人が居るからである。

その整えられた場を乱すような何事かをする人の多いこと・・・・・・

 

 

 

 

場を整えるということは簡単な事ではない。

人の欲望で乱れた場を整え続けるには、無償の労力が必要なのである。

肉体のエネルギーも使えば、霊的エネルギーも浪費される。

無心になり、当たり前のこととして行うことで、その場を整えるための力を神から与えられる。

そうしてようやく場が整う。

 

 

 

神に手を伸ばす・・・というのは、神に手を差し伸べることと同等なのである。

 

『救うものが救われる』

 

神に「我が手を使え」と差し伸べた者だけが、神の手を取ることが出来る。

 

神に「我が身を使え」と差し伸べた者だけが、神の身をその身に一致させることが出来る。

 

 

 

穢れの濁流の中で清め続ける金色の神は、穢れにその身を投じる者に宿る。

穢れをその身に受け続ける者の中に、金色の女神が宿る。

 

その金色の女神めがけて、多くの人の守護霊は攻撃を仕掛け続ける。

おのれの穢れを投げ続けて、人を穢し続けている。

それが今の世界の霊界の有り様である。

 

 

整えられた場に赴き、おのれの穢れを吐き出して、きれいになったと勘違いしている。

やればやるほど神から離れ、角の生えた餓鬼や狐狸の類の畜生霊を背負った者で溢れかえっている。

 

刻一刻と穢れが増え続ける神域で、ごみを捨てて帰ってきては「綺麗になった」と勘違いする。

 

場を整える者の手も追い付かないほどに、ごみは打ち捨てられてゆく。

そうして神域から神々が離れていった。

 

 

 

餓鬼畜生が増えすぎて、それらが織りなす修羅道が、調和を歪ませ戦に駆り立ててゆく。

 

 

心を肚に鎮めることが出来ず、常に頭に上っており、だから心がせわしなく、右に左に蛇行して、頭を鎮めるために、頭に湧いた穢れを捨てに行く。

だから餓鬼畜生に魅入られるのである。

 

 

 

そもそも身の修行が出来ていないから、霊の修行も出来ないのであり、だからいつまでたっても魂は曇ったままなのである。

 

断捨離と言って物を捨てるばかりで、心の中にあるゴミが捨てられていない。

順序が逆なのである。

 

 

まずは心を整えよ。

自分は何をするものぞ?

 

我が身でそれを行い体現してこそ「神」に近づく一歩を進める。

 

外国産のスピリチュアルに翻弄されて神からどんどん離れて行く者は、幽界(がいこく)御魂となり行くだけである。

 

神や天人に「獣」の羽根を生やすようなもの。

だから餓鬼畜生に魅入られることとなる。

 

 

 

人界で「穢れを祓う」とは、人の心の穢れを引き受け、場の穢れを引き受け、きれいにすることである。

霊界に於いて「穢れを祓う」とは、餓鬼畜生を更生させることである。

 

穢れとは何ぞや?

 

過ちによる歪みであり、歪みによって生まれた灰汁である。

 

 

心が、目が曇っているから踏み外す。

外れたまま進み続けるから歪みが広がり灰汁が広がる。

 

 

目や心の曇りを取り除くことが先決であり、物を捨てるのは二の次である。

曇りが晴れれば自ずと捨てる物は見えてくる。

 

 

物が増えるは治まらぬ欲のため。

欲が治まらぬのは根っこを見ていないから。

 

物欲は「代償行為」でしかないわけであり、だからいくら物を捨てようとも「代償」としての「欲」が湧いている限り、すぐにゴミは溜まってゆくだけである。

 

根源の「餓え」が代償行為を起こさせる。

いつまでも治まらぬ「餓え」が「餓鬼畜生」を呼び寄せている。

そして、餓鬼畜生が更なる代償行為を呼び起こさせる。

螺旋にハマっているわけである。

 

 

 

餓鬼道に堕ち、畜生道に堕ち、修羅道に堕ちているうちは、人ですらないのである。

人とは霊留(ひと)である。

自分の霊すら自分の内にしっかりと留められておらず、狐狸や飢餓の鬼となり、修羅の道で争っている様が今の霊界の様相である。

霊の姿が人では無くなっているのである。

 

人の道すら外してしまっているそんな状態で、天の道に足を踏み入れることなど出来ない。

 

 

人の道とは、人として自分が在るがまま在り人としての行いをすることである。

在るがまま在る時、人は無心で自分を行っているものである。

穢れを祓い掃除するのか、結ぶのか、喜びを与えるのか、労わりねぎらうのか・・・・・

それを無心で行い続けた先に天の道があり、その先に自分の直系の神が在るわけである。

 

報われない自分の行動に嫌気がさして投げ出せば、道を外すこととなる。

 

報われないと思うのは、目が曇り心が曇っているからであり、だから道を踏み外す。

そして何より「無心」であることから外れているから曇るのである。

 

 

 

生きていれば曇るのは仕方のないこと。

だが、気付き曇りを掃除することを怠らなければ、道を踏み外すこともなければ、外れてもすぐに戻って来れる。

 

だから常々掃除洗濯することである。

道を踏み外し、餓鬼畜生に集られても気付かないまでに曇ってしまわぬように・・・・・

 

そうして自分の霊を「人の姿」に戻すことである。

 

あまりにも・・・霊が人の姿を失った者の多いこと・・・・・・・

 

 

 

もう残された時間は少ない。

 

一刻も早く『我に返る』ことである。