神人一体の姿 | 神人一致の癒奏術・響庵

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実はここ2ヶ月ほどのあいだ、様々な「振り返り」をしていた。

日記のようにブログを書き始めた2016年からを振り返ってみると、再発見できるものが多分にある。

さらに、過去の自分が示してくれている道もある。


そこを歩いている最中はたとえどんなに「いばらの道」であろうとも、先の見えない真っ暗な闇であろうとも、逃げずに進んでいくことでやがて光明を見出すことが出来る。

途中で逃げ出したくなるだろう。

だが、それでも耐えて耐えて突き進むことが出来るか否か。

それが大きな分かれ道となる。



どんなに重い足取りでも、一歩一歩と足を前に出す。

たとえその一歩で僅かな前進しか出来なくても、立ち止まることを忌み「少しでも前に」出て行く。

それが「自己信頼」というものである。


けっして「別の答え」など探そうとはしない。

もっと楽な「道」など探そうとしない。

「この道の先」にしか自分がたどり着きたい場所はないのである。

だから「他に道は無い」のである。



その道しかないのに別の道を探したがるのは、結局のところ自分への信頼がないのである。

だから答えを求めて右往左往して、気付けば『蛇行』するように歩いている。

自分が決めた一本道を貫けず、右へ左へと蛇行する。


それは「自分への信頼」の無さの表われ。

自分を信じれず何を信じようというのだろうか?



そこを歩いているときは先など全く見えない。

それは当たり前のことである。

その当たり前を人は忘れてしまった。


そうして人は自分が本当にやりたいこと、やるべきことを投げ出してゆくのである。



そうやって自分との『約束』を投げ出すということは、自分というものを尊ばず、自分というものに対して『愛』のない行いである。


そうして『自分との約束』から逃げておいて、どうして『愛』が見つかるというのか?

自分自身から逃げ出す者にどうして『愛』があるというのか?


自分を愛せず、自分を尊べず、そんな者が他人を愛せるわけもなく、他人を尊べるはずもない。

自分自身すら真っすぐ進めない者が、どうして誰かの道しるべなどになれるというのか?

蛇行をする者が示せる道は蛇行でしかないんだよ。


逃げ方を教え、言い訳の仕方を教え、屁理屈を教えるばかりで、結局のとこ『愛』など教えられない。

自分を愛せず自分を裏切った者が、どうして『愛』を伝えられるのか?



自分の辛さを憐れみ、自分に情けをかけて『愛』から自分を引き離しておいて、『愛』が無いといっていくら『愛』を求めても、自分自身が逃げている『そのもの』を得られるわけはないのである。

『愛』から逃げ出した自分を憐れんで、『自己憐憫』を満たしながらそれを『愛』と偽り続けても、やればやるほど自分の『憐れ』さが増すばかりである。

だから餓鬼のごとく飢え続ける。


その『飢え』はやがて憎しみへと変質してゆき『悪』へと堕ちて行く。

そんな自分の『悪』を認めないために、身勝手に『悪』の対象を外側に置き、自らをその『悪』の対比と称して『正義』の名の基に自分を偽る。

誰かの『悪』を責め立てることで自らの正当性を立証しようとしているわけであるが、それは自らを誤魔化し続けるということである。


そしてなにより、自分自身は自分を誤魔化し続けているということを知っている。

知っているからその事実に蓋をして見ないようにして、さらには他人にも悟られないようにしているわけである。

そうしていつしか自分自身の居所さえ見失ってしまう。


自分とは何なのか?

それは裏切り見放して忘れ去ったもの・・・

だから見つからない。

自分が見つからないのである。


自分自身を尊ぶことをやめ、愛することをやめたとき、自分を見失ったのである。

自分自身を憐れんで、情けをかけ『道を外した』とき、自分を見失ったのである。




自分が決めた『道』を進み続けるとき、楽なときもあれば苦しいときもある。

それは『山』を登るのと同じように、様々な道程があるだけのこと。

自分が目指した『山』はいったいどんな『山』なのか?

その『山』の道程を『他人』が知っているわけもない。

それは自分だけの『山』なのだから。

だから自分しか『道』は知らないのである。


自分しか知らない『山』であり、自分しか知らない『道』であるのに、どうして『自分』が信じられないのか?

自分への『信頼』を無くしたとき、その『道程』は終わり、『山』の頂(いただき)への道は失われる。

そして、自分への『尊厳』を手放し、自分への『愛』を手放したということである。


自分の『道』は自分の中にしかなく、自分の『尊厳』は自分自身にしか与えられず、自分への『愛』は自分以外叶えられない。

他者に、外側にいくら求めても、何処にも無いのである。



自分が決めた道の先にある『山の頂』は、自分の中にある思いの『火』そのものである。

それは生きる意味であり目的であり道程であり、それ自体が『命』の輝きである『愛』そのもの。

その『命』の輝きを表現するための『我が身(水)』である。

思いの火をその身(水)で現わすとき、人は『火水(神)』となる。

そして、思いの火は最初の【御言(みこと)】。

それが思いの『火』と行動する身(水)が結ばれ【命(みこと)】となり、その道を進み続けることが【尊(みこと)】となる。


思いの火、最初の御言は自分がここにいる理由。

それを我が身と結び現わすのが【愛】である。

その道を進み続けるのが【誠】である。


道の辛さに負けて「我が身」を憐れみ情けをかけて自らの思いから逃げたとき、人はすでに【神】から逃げたということである。

そして人は神から逃げたまま「神頼み」をしている。

滑稽な話である。



神から逃げたものたちの神とは一体どんな神であるのだろうか・・・

自分を憐れみ情けを求めて自分自身から逃げ神から逃げて神頼みすれば、一体どんな神が現れるのか?

自分を尊ばず自分を愛さず、ゆえに他者も尊べず愛せず、いったいどんな神が現れるのか?



『逃げる』ということは時と場合においてけっして悪い事ではない。

だが、『逃げる』ことと『見ないようにする』ことは全く違う。


逃げるということは本来『距離を置く』ということである。

だから距離を置いた対象をしっかりと把握しておかなければならない。

つまりは『見続けて』おかなければならないわけである。

だが、多くの人は『逃げる』ということを『蓋をして見ない』ように、まるで『無かった』ことのようにして『諦める』ことを『逃げる』と偽る。

本来、危険や苦しさ、辛さから一時『逃げる』ことは『休む』ことでもある。

それは『道程』の上で起こっている出来事から、どうしようもなくなり逃げるということであって、『道程』の先にある『目的地』から逃げることではない。


だが、その『目的地』を手放して『逃げた』などというのは、それ自体『自分を捨てた』『尊厳を捨てた』『愛を捨てた』ということである。

そして『神を捨てた』わけである。


その『一度捨てたもの』を取り戻す。

それが『改心』である。



心の中にある『自己憐憫』を捨て、自分に対してかけ続ける『情け』を捨て、自分の思いの『火』をふたたび取り戻し、その『火』が指し示す『目的地』へ進む。

そのように心を改めてお出直しである。


いつまでも蛇行するをやめて真っすぐ進む。

自分を憐れんで自分を捨てず、情けに流されて愛の火を消さず、誰が蔑もうとも自分は自分の道を尊んでゆくとき、御言は命となり尊となる。

神人一体の姿である。