ちょうどAmazonprimeで『ぐらんぶる』の映画があったので、たまには何も考えずに笑うのもいいかと思って観たのだが、やはり笑ってしまった。
学生生活はこれぐらい羽目を外して楽しむのがいいはずだ。
しかし今はどうだ?
少し前に知り合いの娘さんが「ギターを弾きたい」と言っていたので、ウチにあったギターをあげたのだが、その子がこんなことを言っていた。
「大学に入学したばかりなのに未だに友達らしい友達も出来ない。学校にも行けず遠隔の授業ばかり受けて半年過ぎたけど、ちっとも前に進んでいる気がしないし、これからもどこにも進めない気がする。」と憂鬱な表情で話していた。
今の社会はいったい何を守ろうとしているのだろうか?
コロナなどとはほぼ無縁の子供たちに課した足枷の重さを、大人たちはどれほど気にかけているのだろうか・・・
子供たちに何も示すことも出来ず、ただただ遠隔の授業を続ける先生方は、何故「先生」という尊称を与えられているのか考えたことがあるのだろうか?
先導者たるものが状況の変化に対応できず、ただただ世の流れに身を任せているだけならば、もはや「先生」ではないだろう。
『仕方ない』などというならば・・・・
子供たちに先んじて道を拓けず、子供たちと同じように先に進めず停滞してしまっているなら、「先生」という存在はもはやその呼称に値しない存在である。
子供たちが自分を犠牲にして得ているものは何なのか?
そもそも何某かを得ているのか?
大人の立場で子供の置かれた状況を見るのと、子供の立場で子供の置かれている状況を見るのでは全く違ってくる。
それは「未来を目指す」ということの在り方そのものが違う。
子供たちは今、自分の『着地点』を完全に見失ってしまっている。
自分が社会に出る時
そこにはどんな世界が広がっているのかが全くわからない。
だから「どこを目指して行けばいいのかわからない」のだ。
それはとりもなおさず大人たちが「どんな世界を築こう」という明確な意思が無いから。
ただただ待っている大人たち・・・・
何を?
どうして
子供たちと一緒になって未来を考えないのか?
どんな世界にしたい?
もはや聞きなれすぎてしまうほどに聞きなれたスピリチュアルの世界の言葉。
だがそれは、大人たちの遅すぎる「自己実現慾」に費やされて、子供たちを含む世界は置き去りである。
彼らが大人になってから、自分たちの思い通りの世界を創ればいい。
そんな綺麗ごとが聞こえてくる。
彼らがそれをしようとしても、圧倒的多数の大人たちが頑として自分たちのテリトリーを譲らない。
数で圧倒される子供たちは結局のところ今のように自分を犠牲にしていかなければならないことになる。
そう考えると「先へ進めない」と言った彼女の言葉は本当に的を射ている。
考えれば考えるほど「先へ進めない」現実が目の前にある。
先日、衆院選があったが、政治家にとって最も必要な『票田』は第一に「おとしより」であり、次に中間層、そして最も数が少ない若年層は最も後回しになるのである。
それが「民主主義」といううわべだけの自由がもたらす結果である。
2極化はすでに人の頭の中に、心の中に起きている。
どうする?
どうなる?
最初に起こる心の火はどちらであるか?
最初に言葉に出る思考はどちらであるか?