一昨年くらいに自分がこの地球(ほし)と一体になったと思った。
そして、それ以来この地球(ほし)の思いのようなものが流れ込んでくるようである。
『もはや限界』
穢れがまとわりつき疲弊し、それでも浄化を続けるこの自凝(おのころ)の地球(ほし)は、祓えども祓えども大きくなる粟島に包まれて、息をするのも大変なほどになっている。
『情け』で湿った粟島の『カビ』に包まれるような・・・・そんな感覚である。
祓えども祓えどもまとわりついてくる粟島(幽界)の嘆きが、常に身体にまとわりつく。
この地球(ほし)が味わっている感覚そのものが五感に常に流れてくる。
神々は、そんな汚泥の中で働いている。
特にこの地球(ほし)の、大地の神々は、身体を汚泥に染めながら働いている。
明王の身体が泥炭色に染まっているのは、そういう理由なのである。
祓いとは、そんな汚泥に身を染めることである。
自分だけ穢れのない場所から、神に『祓い』を頼むことで『祓った』気になって、自己満足するのは「鼻高天狗」の所業である。
本当に『祓い』をしているこの地球(ほし)の生命は皆、その身に穢れを受けて流している。
大人たちの穢れを子供たちが身に受け『祓う』ように、人の穢れを動物や草木が祓い、草木の穢れを虫たちが祓い、さらにその穢れを微生物が祓い、さらにその穢れを天地が祓う。
それでも追い付かぬほどの穢れは、雨となり大地に還り、微生物を侵食し、虫たちを侵食し、草木を侵食し、動物を侵食し、やがて人へと還る。
そして、還ってきた『穢れ』を誰かのせいにして、自分の庭だけ綺麗ならばと「不法投棄」するように投げつけ捨てる。
そんなこと知らないから悪気はない・・・・では済まない。
ごみを投げつけ捨てておいて「悪気はない」では通らない。
ちょうど今日は夏至の日
どれだけの魂が高みへと飛び出せるのか