
冬来たりて 春を待つ
風に舞う雪を 花に映すも 人の心
なびく 葦の心になりて 風に身をまかせ申した
風招ぎ(かざおぎ)する者あり
風の寄るところを 風合瀬(かそせ)と申す。
今 風は柳生へと 吹くなり
『風合瀬におこる龍巻にかけてみるか・・・良きかな』
*風招ぎ・・・風を呼び起こすこと
少年時代のバイブルだった「カムイ外伝」の中の一節です・・・
すべての道はローマに通ずる・・・という言葉があります。
それは、ローマ人にとっては「どこへでも行ける」ということでもあります。
ちょっと出かけてすぐに帰ってくるなら、とてもありがたいことですが
もしも、片道切符なら?
どこへでもいける状態で人は何処へと向かうのでしょう?
というより「何を基準に」それを決めるのでしょう?
風合瀬(かそせ)には、いろんな方向から風が吹き寄っています。
そして、いろんな方向へと風は吹き抜けていきます。
カムイは自分の「人生」もしくは「運命」を風になぞらえ
自分という存在を「風になびく葦(あし)」そして「風に舞う花びら」になぞらえて
まるで自分を誘っているような・・・
自分に挑戦しているような・・・
ひときわ強い風に身を任せることにした。
抜け忍(ぬけにん*忍びの世界から抜けること)となって自由を求めてひたすら追手(おって)から逃げ続けるカムイが、忍びを総括する柳生家へと向かう「風」に身を任せたわけであります。
だから、そんな風を「龍巻(たつまき)」と心に映しとったのでしょう。
身を任せるとは「最も自然で必然的」な運命へと乗り出すことでもあります。
様々な風が寄り集まり、「風合瀬(かそせ)」となってやがて「龍巻」となり、「龍巻」が進む方へ「龍巻」に乗って向かう・・・
「抜け忍」という運命の風招ぎ(かざおぎ)をする根本のところへ行くわけです。
そんな風招ぎされた風と「自分」という存在の「生」が起こした風がぶつかり合ったところに起きた「龍巻」。
それに気付いたから
『風合瀬におこる龍巻にかけてみるか・・・良きかな』
となったわけです。
難しいかな?
心に恐れ無く 波無し
心 静にして鏡の如く 月をあるがままに映し出す
「水月」に至った「空(くう)」の心です。
この世は「鏡の原理」で出来ています。
だから、風招ぎしているのは「柳生」のようで、実は「カムイ自身」も柳生に対して「風招ぎ」していた・・・
だから「龍巻」が巻き起こるんです。
「人生」も「運命」も自ら創造するものです。
だから、本来誰でも「どこへでも行ける」はずです。
問題は「何を基準」にして決めているのかということ。
誰かの意見?
誰かの価値観?
誰かに「こう見られたい」という願望?
誰からも批判されないという在り方?
何処へでも行ける人生の「片道切符」の「行先」を、どうして「誰か」にゆだねてしまうのでしょうか?
どうしてもっと大切にしないのでしょうか?
そして、どうしてもっと「本気」にならないのでしょうか?
占星学とアロマ
6月21日(水)が夏至にあたります。
そして3日後の6月24日には蟹座で新月です。
蟹座のカニは「繊細で柔かいものを守る硬い甲殻」という意味合いを持っています。
繊細で傷つきやすいものを硬い殻で抱いて守っている・・・
そんな星座です。
そして新月の日に冥王星と金星の影響で
「本当に大切なもの」
それが浮かび上がってくるかもしれません。
先週は「緩衝地帯(かんしょうちたい)」的な感じかな?・・・と記事にも書いておりましたが、その緩衝地帯が「風合瀬(かそせ)」のようであったように思います。
その風が日に日に強くなっている気がします。
今年のエネルギーシフトはどんどん加速されており、夏至の日には大きなエネルギーシフトが起こると言われています。
その影響で心も身体も「身軽になる」ことを、ずっと問われているのですが、その感覚を感じているかいないか・・・という事実が、大きな違いとなっているのかもしれません。
浄化、デトックス、ダイエット・・・
心も身体も不純物を浄化する「純化」が問われています。
どこにでも行ける片道切符を持ってどこへ行くのか?
風に舞う雪を 心に「花」と映す
その心の在り方は すでに幸せな人生を「創造」しています。
今週のアロマはRe:Quiemの菊理と水月
この二つしかありません。
自信をもってこの二つのブレンドです。
あなたの心にある、たったひとつの大切なもの・・・
それが見つかるよう願っています。
Re:Quiem Kikuri(菊理)Aroma Blend
Re:Quiem Suigetsu (水月)Aroma Blend