魂を癒す(門を開く) ~ゆらぎセラピーの理 第7番 | 神人一致の癒奏術・響庵

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難しいことを書くなと言われていたのですが、単純に済ましてしまうと誤解したまま理解に至らない可能性が大いにあります。

 

言葉一つとっても、人それぞれ言葉に対するイメージや理解は違います。

 

それこそ十人十色です。

 

しかも「魂」という漠然とつかみどころのない雲のような存在の話ですから尚のことです。

 

 

 

あ、ちなみに「魂」とは「鬼」という字に雲と言う意味合いの「云」という字を合わせて魂と言います。

 

「鬼」とは「霊」のことです。

 

文字からしてつかみどころがないことを認めているほどですから・・・

 

 

少々しんどいかも知れませんが、お付き合いください。

 

 

 

 

 

魂の定義

 

一口に「魂を癒す」と言っても、そもそも魂が何で、何者かわからない存在をどうやって癒すというのか?

 

その「魂」についてまずは説明します。

 

 

これは宗教や思想・哲学によって定義が異なってきます。

 

存在の有無さえ異なります。

 

 

 

私は「禅」から学んだものでこれを定義させていただきます。

 

ゆらぎメソッド自体が「禅」のメソッドですから。

 

 

 

私がここで言う「魂」は、禅で言うところの「真我」と呼ばれたり、「無位の真人」と呼ばれるもののことです。

 

 

 

 

真我

 

人は生まれてから成長するにあたり、様々な学びの中で「自我」というものが形成されていきます。

 

物事を考え、判断し、行動に移す。

 

思考や感情に左右されながら選択をする自分自身、それが自我というものです。

 

皆さんが「自分」と思い判断しているのがこの「自我」なわけです。

 

 

 

 

人は生まれ出でるときに最も苦しい肉体的苦痛を通って誕生します。

 

出産のときに産道を通る時が最も肉体的苦痛だと言われています。

 

その苦痛を通り越えてこの世に誕生して、初めて「自我」も誕生します。

 

それは、生まれ出た自分が何者なのか?

 

その存在証明の証(あかし)を求めて産声を上げるわけです。

 

そして母の腕に抱かれたとき、初めて自分が「人間」であるという存在証明を得るわけです。

 

 

誰かに必要とされること。

 

自分の居場所・・・

 

人と人の繋がりの中での居場所・・・

 

それが「存在証明」です。

 

 

 

その後、成長する段階で様々な学びがあります。

 

そんな学びの中で、親から愛情を受けながらも、「存在証明」を脅かすような言葉や態度も味わうわけです。

 

「いい子にしなさい」

 

「そんなことしちゃダメ」

 

「お仕置きするよ」

 

「あの子を見てみなさい」

 

その他様々な教育がされます。

 

 

子供は無力です。

 

「生存」を勝ち得るためには、そして「存在」を証明するためには、不服ながらも従います。

 

そして、成長する中で毎度毎度言われることで、意識に完全に刷り込まれ、いつしか無意識に存在証明のための行動や意思決定をするようになります。

 

 

いい子でいようとしたり、人と比較されて馬鹿にされないようにしたり、怖いと言われたものを恐れ、幸せと言われたものを追いかけるようになります。

 

そんな長年をかけて出来上がった心の性質を「自我」と呼び、それを皆さんは「自分」と認識しています。

 

 

それに対して「真我」というのは、長年かけて出来上がる以前の純粋な、もともと生まれ出るときにあった「自分」というものです。

 

その「真我」の自分は「存在証明」というものには一切頓着しません。

 

ただ、生まれ出て生きていく上で仕方なしに身に着けた習慣や思考という「性格」「性質」が無用のものかと言えばそうではありません。

 

社会秩序や人間関係上必要なものはたくさんあります。

 

しかし、無用のものもたくさんあります。

 

というより、無い方がいいものもたくさんある、と言ったほうがいいでしょう。

 

 

 

それは、人の「存在証明」を与える代償として抱かせた「恐れ」です。

 

その恐れが「差別」というものを生み出します。

 

現代で言うと学歴がどうのとか、金持ちの家に生まれてどうのとか、職業がどうのとか、太っているとか痩せているとか、およそ「差別」する心があります。

 

この差別の心が 妬(ねた)みを生み、怒りを生み、蔑(さげす)みを生み、自虐を生み、虐待を生み、暴力を生み出します。

 

 

そんな差別をしない心も同時に自分の中に存在しています。

 

それが「真我」という自分自身です。

 

その「真我」のことを「魂」と呼んでいます。

 

 

元々、純粋なままあった「真我」と言う「魂」の周りに、存在証明するために「魂」を覆っていった「自我」なのです。

 

 

 

 

魂の意志

 

そんな魂が本来持っている心というか「意志」があります。

 

そんな魂の根源的な意思が「愛」です。

 

 

 

もっと愛されたい

 

自分は愛されていない

 

だれも愛を与えてくれない

 

 

そう心で叫んでいるのは自我の自分です。

 

その叫びは「存在証明」の叫びです。

 

 

生まれたばかりの赤子は存在証明を求めています。

 

ですが、それと同時に母の腕に抱かれることで、愛を与えている存在でもあります。

 

母も子もどちらも大きな苦しみを乗り越えて、ようやく出会ってお互い「愛」を与えあっているのです。

 

どちらも安堵と安らぎと歓びを感じているでしょう。

 

 

 

最初は純粋な愛が溢れていたにもかかわらず、それが成長していく中で少しずつ真我が覆われて行き、いつしか真我がいることさえ忘れてしまっています。

 

 

それでも時々顔を出しては自我を正してくれたりしています。

 

 

 

 

 

魂を癒す

 

魂を癒すというのは、真我の存在に気付いてもらうこと。

 

そして、余計な自我を少しずつ修正して、真我の自分の意志を呼び覚ますことです。

 

つまりは「愛」「歓び」を与えるという意志を呼び覚ますことです。

 

 

 

そもそも普段使われている言葉に間違いがあるのでしょう。

 

愛を与えるという言葉は本来成立しないと思います。

 

「愛」とは湧き上がる感情というか感覚のようなものです。

 

そんな感覚から起こる行動が「愛ある行動」で、その「行動」が人に何かを与えているわけです。

 

 

 

真我の自分、つまり魂を忘れた人は愛のない行動に陥りがちです。

 

その一番多いのが「言葉」に現れています。

 

 

魂が余計な自我に覆われていなければ、母は子を育てるときに愛のない言葉を与えることは無かったでしょう。

 

そうすれば、子供も余計な自我が魂に纏わりつくことも無かったかもしれません。

 

ですが、世知辛い世の中でなかなか「愛」を保っているのは難しいことなのかもしれません。

 

 

でも、気付けば変われる。

 

そう思います。

 

 

 

魂が心の真ん中にあることを知って、その魂の声に耳を傾ければ、人は間違いなく幸せになれます。

 

その魂の基本は「愛」です。

 

自分の言葉が愛のある言葉なのか、それとも愛のない言葉なのか。

 

自分の行動が愛のある行動なのか、それとも愛のない行動なのか。

 

魂はそれをちゃんと判断してくれます。

 

 

 

この世には本当に愛のない言葉が溢れています。

 

恐れからくる差別

 

差別からくる妬みや蔑みや怒りや暴力などが、いたるところに溢れています。

 

 

そんな言葉に注意して、言葉を変えていけば、やがて恐れは薄まってきます。

 

愛のない言葉、愛のない考え、愛のない行動を、愛のある言葉に変え、愛のある考え方をして、愛のある行動を起こせば、魂に光が届いて本来の自分自身が癒されていきます。

 

 

ほんの少しだけ

 

ほんの少し言葉を変えるだけで大きく変わっていきます。

 

ほんの少し考え方を変えるだけで、心は晴れやかになってきます。

 

その時、行動は以前とは全く違ったものになっています。

 

 

その行動が何より幸せをもたらしてくれます。

 

その時、誰かに自分が愛のある行動や言葉をもらっていることに気付くはずです。

 

 

 

魂は知っています。

 

自分がこの世に生まれてきて、本当はどうすれば幸せになれるのかを。

 

仏陀が語り、キリストが語り、その後も様々な人が語ってきたこと。

 

 

ありのままの自分、それは本当の自分。

 

それが魂

 

 

その魂は覚えているでしょう。

 

生まれ出たときに愛を与えあったことを。

 

愛するために生まれてきたことを。

 

 

 

自我の殻を破って、魂に光が届くように門を開くのが、魂の癒しです。