各合戦の動員人数について(1)江古田原沼袋合戦 | 歴史愛~歴史を学び、実生活を豊かにする~

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「温故知新」とは言いますが、世の中を見渡すと表面的な教訓ばかりでイマイチ実生活に活かすことのできない解説ばかりです。歴史的な出来事を、具体的な行動に置き換えて実生活をより豊かにし、願望を実現する手助けになるように翻訳していきます。


※こちらの記事は、平成30年1月11日に書かれたものです。

皆さんこんばんは。
今回は「大航海時代(だいこうかいじだい)に日本が侵略されなかった理由」に代わる新シリーズということで、いろいろな合戦における動員人数を調べてみようと思います。
※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。


「大航海時代シリーズ」の記事を読みたい方は、下記リンクをタップしてください:
大航海時代に日本が侵略されなかった理由(17)―まとめ

参考記事②:
大航海時代に日本が侵略されなかった理由(13)―戦国大名の農民支配について

参考記事③:
大航海時代に日本が侵略されなかった理由(11)―室町時代までの武士の主従関係について


成功した?ケースの隣の分野を攻めろということで、「大航海時代」のときに言及した「戦の動員人数」について深掘りしてみようという魂胆です 笑

といっても僕は歴史学者ではないですし、原典史料に当たれるほどの余裕も時間もないので、信憑性という意味での評価のそんなに高くないインターネットの情報と、手持ちの文献を基に書くことをお許しください。





という訳で初回は「江古田原沼袋(えごたはら ぬまぶくろ)の合戦」ということで、なぜこの合戦を選んだかというと、僕が中学生のときから愛読している『歴史と旅』の増刊「日本合戦総覧(昭和63年1/10臨時増刊、秋田書店)」という雑誌に載っている中で応仁の乱後の最初の合戦だからです(新井英生氏の記事)。

それと、戦場が東京(とうきょう)に出てきてからよく通る場所だというのもあります 笑

詳細な戦の流れは下記ブログを参考にしてください。
簡単にいうと、文明(ぶんめい)9年(1477年)、長尾景春太田道灌が対立し、景春方の包囲網を破るために太田道灌が豊島泰経泰明兄弟と戦った合戦です。

合戦そのものについてもっと知りたい方は、下記リンクをタップしてください:
江古田原沼袋の戦いから学ぶ―できないことをできるようにする方法

合戦そのものの呼び名としては「江古田合戦(えごた・がっせん)」、「江古田沼袋原合戦(えごた・ぬまぶくろはら・がっせん)」、「江古田沼袋合戦(えごた・ぬまぶくろ・がっせん)」などいろいろとありますが、戦場となったのは今で言う西武新宿(せいぶ しんじゅく)線沼袋駅から都営大江戸(とえい おおえど)線新江古田(しんえごた)駅の間くらいで、新青梅(しんおうめ)街道沿いの哲学堂(てつがくどう)公園のあたりです。

合戦の経過そのものとか戦略についても論じたいのですが、今回は「動員人数」がテーマなので、焦点をそこに絞りたいと思います。

下記「今日は何の日?徒然日記」さんによれば
豊島(としま)勢:200騎
太田(おおた)勢:50騎
とのことで、「Wikipedia」によればそのうち豊島勢は150騎が討たれたとのことですが、「今日は何の日?徒然日記」さんのおっしゃるようにこれは騎馬武者の数なので、足軽小者(あしがる こもの)を入れたらもっと数は多かったと思われます。

では、騎馬武者1騎につき足軽はどれくらいの人数がついていたのかというと、「足軽の階級と組織」さんによると足軽小頭(あしがる こがしら)1人につき30人程度、足軽大将(あしがる だいしょう)は小頭も含めた50~100人程度ということです。

この頃は足軽軍法(あしがるぐんぽう)〔足軽戦法(あしがる せんぽう)〕が定着していなかったというのはよく言われることですが、太田道灌が勝った要因がその「足軽軍法」とのことなので、豊島勢には足軽がついていなかったと仮定しましょう。

そして、太田道灌の方でも「足軽軍法」の黎明期の戦いな訳ですから慣れていないと仮定して、もっとも少ない30人で考えてみると、足軽30人×騎馬武者50騎ということで、1,500人の軍勢ということになりますね。

のちの戦の動員人数を考えてみると少ない方ですが、まぁ、なくはない数字かなと思います。

そう考えると、一般的に多勢の豊島勢を寡勢(かせい)で破った太田道灌がすごい!という定説どおりではないということになりますが、まぁ、足軽はカウントされていないということですかね。

ちなみに、豊島勢にも足軽小者が騎馬武者1人につき30人いたと考えると、
足軽30人×騎馬武者200人→6,000人

豊島勢、太田勢ともに1騎につき50人と考えると
豊島:足軽50人×騎馬武者200人→10,000人
太田:足軽50人×騎馬武者50人→2,500人

1騎100人と考えると
豊島:足軽100人×騎馬武者200人→20,000人
太田:足軽100人×騎馬武者50人→5,000人

となります。

そう考えると、当時の勢力規模として豊島氏の10000人とか20,000人とかは考えにくいかなと思います。
(のちの豊臣秀吉小田原合戦(おだわら がっせん)でも、国持ち大名クラスの動員数が10,000人いくかいかないかくらい)
それに対して太田氏の5,000人くらいだとありうるかな、と思いますが、まぁ同じく勢力規模で考えると2,000人くらいが妥当というところでしょうか。

ということで、1477年辺りの合戦動員人数は大体武将一人につき1,000~2,000人くらいかなというところでしょうね。
(もう一度いいますが、この検証は原典史料などにあたって検証したものではないので、事実としては捉えないでください。あくまでこのブログオーナーの推測です)

結論
豊島勢:騎馬武者200騎 足軽0人?
太田勢:騎馬武者50騎 足軽1,000~2,000人?

今回登場した人物のフルネーム
・長尾 左衛門尉〔通称は孫四郎〕 平 朝臣 景春
ながお さえもんのじょう〔通称はまごしろう〕 たいら の あそん かげはる
・太田 備中守〔左衛門少尉、左衛門大夫。通称は不明〕 源 朝臣 資長〔持資。入道道灌〕
おおた びっちゅうのかみ〔さえもんのしょうじょう、さえもんのだいぶ。通称は不明〕 みなもと の あそん すけなが〔もちすけ。入道どうかん〕
・豊島 勘解由左衛門尉〔通称不明〕 平 朝臣 泰経?
としま かげゆざえもんのじょう〔通称不明〕 たいら の あそん やすつね?
・豊島 平右衛門尉〔官職不明〕 平 泰明?
としま へいうえもんのじょう〔官職不明〕 たいら の やすあき?
・関白 羽柴 太政大臣〔通称は藤吉郎〕 豊臣 朝臣 秀吉
かんぱく はしば だじょうだいじん〔通称はとうきちろう〕 とよとみ の あそん ひでよし

※写真は主戦場となった哲学堂公園です。

参考
合戦前夜から合戦そのものの経過についてについて
サムライ銅像研究会
趣味の部屋
今日は何の日?徒然日記

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