『青天を衝け』第17回―武田耕雲斎について | 歴史愛~歴史を学び、実生活を豊かにする~

歴史愛~歴史を学び、実生活を豊かにする~

「温故知新」とは言いますが、世の中を見渡すと表面的な教訓ばかりでイマイチ実生活に活かすことのできない解説ばかりです。歴史的な出来事を、具体的な行動に置き換えて実生活をより豊かにし、願望を実現する手助けになるように翻訳していきます。


※こちらの記事は、令和3年7月26日に書かれたものです。

皆さんこんばんは。
今回は令和3年の大河ドラマ『青天を衝け』第17回に関しての楽しみ方を解説したいと思います。

大河ドラマを見てみたけれど、歴史もよくわからないし、どう楽しんでいいのかわからない
歴史には興味あるけど、自分では積極的に勉強する気になれない、という方必見です!
※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名をのせています。

【『青天を衝け』の楽しみ方】
・第1回―渋沢家について・第2回―身分秩序について
・第3回―平岡家について・第4回―阿部家について
・第5回―藤田家について・第6回―美賀君の血筋
・第7回―井伊家について・第8回―岩瀬忠震の出自
・第9回―安政頃の西郷吉之助・第10回―安藤信正について
・第11回―高崎城について・第12回―一橋徳川家について
・第13回―越前松平家について・第14回―島津家について
・第15回―三島家について・第16回―池田屋事件について


まずはあらすじ。



第17回のあらすじ


元治(げんじ)元年(1864年)6月、江戸(えど)の平岡円四郎方中(堤真一)邸に一橋(ひとつばし)家からの使いが訪れていた。

そこで夫・円四郎の死を告げられたやす(木村佳乃)は不意の悲報に涙するのであった。

7月、京(きょう)の一橋権中納言慶喜(草彅剛)の元には、長州(ちょうしゅう)の軍勢が大坂(おおさか)に入ったという情報がもたらされた。

孝明天皇(尾上右近)より「長州を討て」との勅命(ちょくめい)を受けた慶喜は、御所(ごしょ)になだれ込もうとした長州勢に苦戦するが、西郷吉之助隆永(博多華丸)率いる薩摩(さつま)軍が駆け付け、見事長州勢を撃退した。

慶喜が見事に幕府(ばくふ)軍の指揮を執る様子を見た吉之助は舌を巻いた。

一方、藤田小四郎信(藤原季節)率いる天狗(てんぐ)党は、説得に訪れた武田耕雲斎(津田寛治)を逆に説得し、耕雲斎を大将に迎えることとなった。

しかし鎮圧に来た諸生(しょせい)党との戦いに疲れ、天皇に会うことを目指し、また、慶喜にすがることを考え京へ向かうのであった。

関東(かんとう)で一橋家の兵を集めた渋沢篤太夫美雄(吉沢亮)と従兄の成一郎英明(高良健吾)は江戸にいた。

そこで恩人・平岡円四郎の死を知り衝撃を受けるのであった。

また、京での禁門(きんもん)の変や長州が欧米4か国に砲撃されたことを知る。

2人は深谷(ふかや)でそれぞれの妻子と再会し、京へ向かった。

ということで、




第17回「篤太夫、涙の帰京」の感想


円四郎の死を聞いたやすの様子は切なかったですね。

仕事をせずに腐っていた円四郎が、慶喜の小姓(こしょう)となり生き生きと仕事をしているのを頼もしく思っていただろうに、本人は帰ってこず訃報(ふほう)を聞くというのはどれだけ辛いだろうかと思います。

しかし、円四郎の遺した手紙を読んで、悲しみを振り切って明るく暮らしいこうとする姿勢にまた胸を撃たれました。

禁門の変については、視点によってここまで違う描かれ方をするとはという驚きがありました。

『西郷どん』では、大将を討って戦を終わらせ、無駄な人死にを避けようとする吉之助の意図をよそに、戦場になだれ込んだ会津(あいづ)藩兵が長州勢を皆殺しにしてしまった、という描かれ方でした。

『西郷どん』での禁門の変の様子を知りたい方は、下記リンクをタップしてください:
『西郷どん』、岩倉具視が残念(第26~30回)

今回は幕府軍を指揮する慶喜の見事な采配(さいはい)が強調されますが、西郷吉之助は薩摩藩の立場を強くするために長州勢と戦を望んでいる描写がされていました。

同じ出来事なのに180度逆の描き方ができてしまうとは、「ドラマの内容をそのまま史実だと思ってはいけない」といういい教訓でしたw

そして、篤太夫達が岡部(おかべ)を通過するときの猪飼勝三郎(遠山俊也)は素晴らしかったですね!

血洗島(ちあらいじま)の栄一(篤太夫)ら百姓を上からバカにしていた利根吉春(酒向芳)の篤太夫・成一郎の身柄引き渡し要求に対して、もっと上の一橋家から「承服しかねる」と言ってやった時のスッキリ感は最高でしたw


利根吉春の登場する記事:
『青天を衝け』第4回―阿部家について

同関連記事:
『青天を衝け』第2回―身分秩序について





第17回の楽しみ方―武田耕雲斎について―


今回は、天狗党の藤田小四郎信を説得しに行くも逆に説得を受け、同情して天狗党の大将となった武田耕雲斎の出自について書こうと思います。

耕雲斎は、水戸藩士・跡部正続の子で元は跡部彦九郎正生、のち伊賀守を名乗っていました。

跡部(あとべ)家と言えば、武田信玄・四郎勝頼父子の家臣・跡部大炊助勝資が有名です。

大炊助は、今では史料として疑問を呈されている『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』(※)にも登場していますが、その中で、長篠(ながしの)の戦いで主戦論を主張して武田(たけだ)軍の大敗の原因を作るなど「奸臣(かんしん)として書かれていました。
※『甲陽軍鑑』:武田信玄、四郎勝頼父子の頃の甲斐武田家の軍学を記した書物で、同時代の成立とされていましたが、17世紀終わり頃にはすでに史料としての価値に疑問が呈されており、実際は江戸時代初期の成立ではないかと言われています。


『甲陽軍鑑』の登場する記事:
各合戦の動員人数について(14)瀬沢の合戦

武田信玄の登場する記事:
野田城の合戦―統率力と「イメージ(印象)」の力

武田四郎の登場する記事:
高遠城の合戦から学ぶ―自分よりキャリアが上の部下と信頼関係を築く方法


耕雲斎はこの跡部大炊助の子孫であったようですが、当時は『甲陽軍鑑』は広く流布しており、「奸臣」の子孫であるという風評を避けて同族である「武田」の名字を名乗り、信玄の子孫であると主張したと言われています。

では、その跡部家とはどういった家なのか。

上に書いたように甲斐(かい)武田家の一族である甲斐源氏(かい・げんじ)の出身です。

しかし武田家の子孫ではなく、武田家の祖・太郎信義の兄弟である加賀美信濃守遠光の子である小笠原左京大夫長清の子孫にあたります。
※南部(なんぶ)家や三好(みよし)家と同族です。


南部家関連の記事:
九戸城の戦いに学ぶ―事態を過小評価しない

三好家関連の記事:
『麒麟がくる』第22回―三好氏の血縁関係


小笠原(おがさわら)家から分かれた後の跡部家の経歴は明らかではありませんが、その後、室町(むろまち)時代になって再び登場します。

当時の甲斐守護(しゅご)は武田安芸守信満でしたが、応永(おうえい)23年(1416年)に関東(かんとう)で起きた上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう)の乱に関連して安芸守は自害します。

その後、弟である修理大夫信元が守護となりますが、その補佐として守護代(しゅごだい)に任じられたのが跡部家でした。

この頃、跡部家は守護である武田家をないがしろにし、一時は甲斐一国を支配したと言われています。

その専横は、安芸守信満の曽孫に当たる刑部大輔信昌の時代に最盛期を迎えたと言われていますが、刑部大輔は後に戦で跡部家を降し、その排斥に成功しています。
※刑部大輔信昌は信玄の曽祖父に当たり、信玄が家臣に与えた偏諱(へんき)「昌」は信昌の「昌」であると言われています。

その後、信玄・四郎勝頼の時代に登場したのが上記・跡部大炊助勝資ですが、実は上記専横を行った跡部家の人物とは同族ではあるものの、つながりがよくわかっていません。

大炊助は天目山(てんもくざん)の戦いで武田四郎とともに死亡したと言われていますが、その子・昌勝は徳川(とくがわ)家に仕えたとされています。

耕雲斎は大炊助の子孫だと言われていますので、もしかしたらこの昌勝の系統なのかもしれません。

関連記事:
天目山の戦いから学ぶ―撤退のベスト・タイミングとは

どのみち、耕雲斎は武田信玄の子孫ではないということになります。

ちなみに、この跡部昌勝の兄弟に和田右兵衛大輔信業という人物がいます。

右兵衛大輔は渋沢篤太夫らが襲撃を計画していた高崎城の城主だったので、こんなところにも渋沢家との縁があるのでしたw

関連記事:
『青天を衝け』第11回―高崎城について

こんな感じで、ドラマの背景にある知識が分かるとドラマをもっと楽しめます!

最後まで読んでいただきありがとうございました!

以下もご覧ください!

※トップ画像はイメージです。

○今回登場した人物のフルネーム(参考:「武家や公家の名前について」)
・平岡〔岡本〕 近江守〔通称は円四郎〕 源?〔清原?〕 方中
ひらおか〔おかもと〕 おうみのかみ〔通称はえんしろう〕 みなもと?〔きよはら?〕 の けたち
・(一橋)徳川〔松平〕 権中納言〔幼名は七郎麻呂〕 源 朝臣 慶喜〔昭到〕
(ひとつばし)とくがわ〔まつだいら〕 ごんのちゅうなごん〔幼名はしちろうまろ〕 みなもと の あそん よしのぶ〔あきむね〕
・統仁〔諡号(しごう):孝明天皇〕
おさひと〔諡号:こうめいてんのう〕
・西郷 吉之助〔吉之介〕 藤原 隆永〔隆盛〕
さいごう きちのすけ〔きちのすけ〕 ふじわら の たかなが〔たかもり〕
・藤田 小四郎 小野 信
ふじた こしろう おの の まこと
・武田〔跡部〕 伊賀守〔通称は彦九郎〕 源 朝臣 正生〔号耕雲斎〕
たけだ〔あとべ〕 いがのかみ〔通称はひこくろう〕 みなもと の あそん まさなり?〔号こううんさい〕
・渋沢 篤太夫〔栄一、栄二郎、栄一郎〕 源 美雄
しぶさわ とくだゆう〔えいいち、えいじろう、えいいちろう〕 みなもと の よしお
・渋沢 成一郎〔喜作〕 源 英明
しぶさわ せいいちろう〔きさく〕 みなもと の ひであき
・猪飼 勝三郎 源 正為
いかい かつさぶろう みなもと の まさため
・利根 (官職・通称不明) 平〔藤原?〕 吉春
とね (官職・通称不明) たいら〔ふじわら?〕 の よしはる
・武田 大膳大夫〔通称は太郎〕 源 朝臣 晴信〔入道信玄〕
たけだ だいぜんのだいぶ〔通称はたろう〕 みなもと の あそん はるのぶ〔入道しんげん〕
・武田〔諏訪〕 四郎 源〔神〕 勝頼
たけだ〔すわ〕 しろう みなもと〔みわ〕 の かつより
・跡部 大炊助〔尾張守。通称は又八郎〕 源 朝臣 勝資
あとべ おおいのすけ〔おわりのかみ。通称はまたはちろう〕 みなもと の あそん かつすけ
・武田 太郎 源 信義
たけだ たろう みなもと の のぶよし
・加賀美 信濃守〔通称は次郎〕 源 朝臣 遠光
かがみ しなののかみ〔通称はじろう〕 みなもと の あそん とおみつ
・小笠原 左京大夫〔信濃守。通称は次郎〕 源 朝臣 長清
おがさわら さきょうのだいぶ〔しなののかみ。通称はじろう〕 みなもと の あそん ながきよ
・武田 安芸守〔通称は二郎〕 源 朝臣 信満
たけだ あきのかみ〔通称はじろう〕 みなもと の あそん のぶみつ
・武田〔穴山〕 修理大夫〔信濃守。通称は四郎〕 源 朝臣 信元〔満春、信秋〕
たけだ〔あなやま〕 しゅりのだいぶ〔しなののかみ。通称はしろう〕 みなもと の あそん のぶもと〔みつはる、のぶあき〕
・武田 刑部大輔〔通称は五郎〕 源 朝臣 信昌
たけだ ぎょうぶのだゆう〔通称はごろう〕 みなもと の あそん のぶまさ
・跡部 (官職・通称不明) 源 昌勝
あとべ (官職・通称不明) みなもと の まさかつ
・和田〔跡部〕 右近衛大輔〔幼名は八郎〕 平〔源〕 朝臣 信業
わだ〔あとべ〕 うこんえのだゆう〔幼名ははちろう〕 たいら〔みなもと〕 の あそん のぶなり
☆武家の「通称」の普及を切に願います!

参考
ぴえーるのテレビブログ
日本歴史時代作家協会 公式ブログ
韓ドラ大好きおばさんの「言いたい放題いわせてヨ!」

/
記事を読んでいただき、ありがとうございました!他の記事もぜひご覧下さい!

threadsX(旧twitter)facebookでのフォロー、お待ちしてます!


☆「この人の書いてること、ちょっと面白いかも」と思った方はぜひメルマガ登録してみてください!

歴史を学んで、知識をつけるだけではなく「歴史を活かして自分の生きたい人生を歩む」というテーマで、ブログでは語れない話などを書いています。

↓こちらの画像をタップしてください↓


また、メルマガに登録してメルマガに記載されているメールアドレス宛にリクエストを送っていただければ、順次お応えします。

・○○(武将、合戦等)について語ってほしい
・大河ドラマ(『軍師官兵衛』以降)について語ってほしい
・今、○○について悩んでいるが、どの武将を参考にしたらいいか

…等々

ブログと違ってほぼリアルタイム配信なので、会話をしているかのようなコミュニケーションが楽しめます!

登録、お待ちしています!

※メルマガが迷惑メールフォルダや「プロモーション」フォルダに入っている可能性があります。
不定期配信なので、ちょこちょこチェックして、迷惑メールフォルダ等に入らないように設定しておいてください。




ブログランキング参加中!
クリックをお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村


歴史ランキング