砂の女 | シネマ、ジャズ、時々お仕事

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日々の生活のメモランダムです。

1964年 東宝(勅使河原プロダクション) 監督 勅使河原宏 脚本 安部公房
(あらすじ:ネタバレあります)
高校教師・仁木順平(岡田英次)は、砂丘のある村に昆虫採集に出掛けた。採集に熱中し過ぎて最終バスに乗り遅れた岡田は、通りがかった村人(三井弘次)の勧めで、未亡人(岸田今日子)の民宿に一泊。それは砂丘から釣り梯子で降りたところにある、奇妙な掘っ立て小屋だった。小屋の中には細かな砂が入り込み、傘を差さねば食事も出来ない。屋根に砂が積もるため、岸田は夜通し砂下ろし作業をするという。岡田が手伝おうかと声を掛けると、岸田は「初日からお客さんには…」と不可解な言葉を吐いた。翌朝、岡田が目覚めると、疲れ果てた岸田は全裸で熟睡中。岡田が外に出ようとすると、梯子がなくなっていた。岡田は全てが村人の罠だったことに気付く。岸田は、砂下ろし作業に男手が必要だと弁解をする。岸田の話から、既に何人かの青年が同様に拉致されたことを知った岡田は、岸田を人質にして村人を脅迫しようとしたが、相手にされない。砂下ろし作業をしないため、水や生活用品配給も止められ、やむなく岡田は岸田と砂下ろし作業に取り組むことにする。それは単調かつハードな厳しい作業だった。やがて、岡田は岸田と肉体関係を持ってしまう。ある晩、密かに作った手製のロープを使って、岡田は脱出に成功。しかし、暗闇の中を逃げ惑ううちに、砂地に足をとられ動けなくなる。結局、岡田は三井ら村人の助けを仰ぐことになり、小屋へ逆戻り。三井の話では、その辺りには「砂あんこ」と呼ばれる砂地獄が点在しているという。岡田はカラスを捕らえる落とし穴の罠を作り、それに「希望」と命名した。捕らえたカラスに助けを求める手紙を添えて、放つつもりなのだ。やがて3カ月が経過し、岡田は三井に1時間だけでも外に出してくれと懇願。すると、三井は、岸田と岡田の性行為を村人に見せろと意外なことを口にした。岡田は岸田を押し倒そうとしたが、岸田が激しく抵抗し、試みは失敗。三井ら村人も散ってしまう。冬が近付き、罠を点検していた岡田は、落とし穴に埋めた樽の中に、毛細管現象で水が溜まっていることに気付く。自らの発見に岡田は久々に知的興奮を覚え、連日、水量の観察を続ける。傍らで岸田は、岡田が希望するラジオを購入するための内職に余念がない。木枯らしが吹く夜、岸田が腹痛を訴え、子宮外妊娠の疑いありと言う事で、小屋から搬出される。岡田は、村人が梯子を残したままなことに気付き、梯子を伝って久々に外の光景を眺めた。だが、岡田はなぜか小屋に戻ってしまう。彼の頭の中は、貯水槽のことで一杯だった。彼はそれを誰かに話したくてたまらないが、そんなことに興味を持つのは村人しかいない。とすれば、何も急いで脱出することはないのだ…。やがて7年の歳月が経過し、岡田の戸籍は失踪宣告で抹消された。
(感想)
私はいわゆるおゲージツ映画は大嫌いで、勅使河原監督の一連の作品も苦手な部類に入るのですが、この「砂の女」は、前衛映画というよりは、むしろ、「大人の寓話」的な雰囲気で、好きな作品の1つです。心ならずも砂の村に囚われてしまった岡田英次が、状況に激しく反発し、何度も脱走しようとしては失敗し、自暴自棄になるうちに、岸田今日子の肉体に溺れていく。そして、時間が経過するうちに、偶然、発見した貯水槽の観察に熱中した岡田は、その研究成果を村人に話したくなって、脱出のチャンスがあったにも拘わらず、村に残留する決意を固めてしまうのですが、これは結局、岡田英次自身が「砂の村」に同化してしまったことを意味します。
こうしたことは、我々の身の回りに日常茶飯事的に存在しますねぇ。私自身の例で言うと、30年前、学部卒業で大手証券会社に入社したときを思い出します。嘘八百を並べて大学院進学希望だった私を無理やり勧誘・入社させたリクルーターのH氏は三井弘次ですね(藁)。岸田今日子は、連日の残業で遅くなった女子社員を駅まで送っていくうちに、付き合うようになったJさん(ハハハ)。無益な砂下ろし作業は、せっかく開拓した新規客をすぐにクレーム客に変えてしまう、強引な回転営業や投信のはめ込みでしょう(爆)。我々、新入社員は、当初、こうした旧態依然の営業手法に激しく反発し、研修部に訴えたり、支店長に辞表を提出したり…だったのですが、その都度、「2年我慢すれば本社に転勤させる」とか「いずれ海外留学させるが、その際には支店時代の営業成績も考慮されるぞ」とかの巧みな言説で幻惑・懐柔されてしまいました(ハハハ)(*)。そして、1年も証券営業生活にどっぷりと浸かると、営業成績が優秀な連中の中には、こうしたノルマ営業スタイルがすっかり身に付いてしまい、不平を口にする後輩新入社員に対して、「生意気なことを言うな! まずはペロ(注文伝票の隠語)を切ってからだ!」と叱責するようになる(苦笑)。まぁ、岡田英次になれなかった私は、早々に退社してキャンパス生活に戻ったのですが、外部者としての正しい中立的視点を失うことが、組織同化の条件になる、という日本的なサラリーマンのあり方は本当に恐ろしいですねぇ。もちろん、この映画、そうした啓蒙・啓発的な目的で撮られたプロバガンダ映画ではないのですが、私は観る度に、身につまされる思いがします。閑話休題。
さて、「他人の顔」で京マチ子の乳房をスクリーン一杯にさらけ出して、詰め掛けたおぢさんたちの嘆息を誘った勅使河原監督は、本作では、岸田今日子をほぼスッピンにさせ、分厚い唇とムーミン・ヴォイスで、観客をエロスの陶酔に誘っています。ただし、全裸シーンはボディ・ダブル。中盤、三井弘次ら村人が、岡田と岸田に「白黒ショー」(ハハハ)を演れとはやし立てるシーン、結構、岡田英次は乗り気になっており(藁)、もう少しエロな展開があるかと期待しましたが、結局、岸田の激しい抵抗で未遂に終わってしまいました(爆)。まぁ、エロを前面に出した映画ではありませんが。
極端なアップの多用は、勝新にも影響を与えた勅使河原監督の特徴ですが、執拗に繰り返される砂粒の接近描写や、立ち上る砂煙は、観客を「砂の村」の住人に同化させてしまう見事な効果を上げていると思います。夏の季節にこの映画を見ると、たまらなく風呂に入りたくなるんですよ(爆)。何か、こう、身体中が砂でジャリジャリしたような感じになって。その意味では、この映画の主役は砂粒なのかもしれませんねぇ。
阿佐ヶ谷ラピュタの「音楽・武満徹特集」(2009年夏)でかかったときは、通常のプリントだったと思いますが、2010年4月の新文芸坐上映では、海外輸出用の英語字幕入りプリントに変わっていました。通常プリントがその後に破損したのか、それともどこかで上映するために借り出されてしまったのか?

(*)ちなみに、本社勤務になってから人事のお偉いさんに聞いた話ですが、その大手証券会社では、海外留学の選抜は学歴やコネで、枠の大部分が入社前から決まっているとのことでした。そう言われてみると、留学組は、元々語学採用のICUや上智・外国語を除くと、毎年、東大・京大・一橋と早慶少々(藁)。営業成績なんかまるで関係なかったですねぇ。元々、大部分の新入社員は、一生、支店営業で働くことが運命付けられていた、という笑えない話なのでした。