以前、ある女子高校生が朝日新聞に次のような投書をしていた。
「私は今、ある高校に通う女子高校生です。先日、私の友人が、飛び降り自殺をしました。
突然の悲報に、私は目の前が真っ暗になり、どうしてこんなことになったのか、と泣かずにはおれませんでした。
学校の先生は『死んではいけない。生きなければいけない』と言われます。また世の識者たちも『強く生きなければならない』と、死に急ぐ若者に警告しています。
けれど誰一人として、『では、何のために強く生きなければならないのか』、この問いに答えてくれる人はいません。
死ねば親が悲しむではないか、と老人たちは諭します。もちろん親不幸であってはならないことは分かります。
でも、本当の生きる意味も分からなくては明るい人生はないし、自殺するなと言われても本当に苦しい人は自殺すると思います。
…人間に生まれて、生きる目的も知らず、ただ名誉や利益だけを追い求める人生であっていいのでしょうか。現代人は、何か一番大切なものを知らないのでは…
だれか教えて下さい。本当の人生の目的を」。
この投書は実に多くの反響を呼び起こした。
これらの反響に対して、この女子高生はもう一度投稿して次のように記したのである。
「思いがけない反響に驚きました。また、多くの方からお手紙や本を送っていただき、本当にありがとうございました。
人生の目的は、一生涯かけてでも求めなければならない大問題だと分かりました。
しかし、死ぬまでに分からないのではなかろうか。また分かっても達成できる時間が残されていなければ、意味がないのではないかと思うと不安です。
…だからこそ、今のうちに心の支えとなるものをつかみたいのです。どんなに苦しくても、これがあるからこそ生きてゆけるというものを知りたいのです。
私は、何かを盲目的に信じるのではなく、心から受け入れられるものがほしいのです…。」
アルベール・カミユは「ジンフォスの神話」の冒頭で、「人生が生きるに値するか否かを判断すること、これこそ哲学の根本問題である」と言った。
生きる意味と使命を問うこと自体、それは哲学的問いであり、また宗教的問いでもある。それを求める生き方こそ、まさに宗教的な生き方なのである。
人生の意味を問うことは、健全な人生を歩むうえで非常に重要なことだ。
健康の定義では、WHOが1948年に採択したものが世界中で用いられ、日本の教科書にも採用されている。
それは、「身体的・精神的・社会的に良い状態であり、単に病気または病弱の状態が存在しないことではない」と述べている。
しかし、1999年、WHOは半世紀ぶりにこの定義を見直して「身体的・精神的・社会的」に加えて「スピリチャル(霊的、あるいは実存的)」という次元を加えるように提案した。
この「霊的」とは、人生の価値観に関わる領域であり、「真に健康であるためには、生きている意味や生きがいという人生の価値観をもつことが必要である」という考え方だ。
「スピリチャル」という言葉は、日本人には占いやオカルトといった、怪しいイメージが付きまとう言葉かもしれないが、西欧諸国においては一般的な表現である。
これは、その人をその人たらしめるもの、すなわち個性の真髄にあるものである。
神学者パウル・ティリヒは、人間を脅かす「実存的不安」として死の不安、罪の不安、無意味さの不安の三つを挙げている。
この三大不安に解答を与え、平安に満たされた生きがいのある生活を送れるようにすることが、宗教に与えられた課題である。
あなたは、ご自分の生きる意味と人生の目的をご存知だろうか?
それではまた次のお散歩の時に。
Until our paths cross again!