文学者である伊藤整 氏は、『求道者と認識者』という論文集を書いている。
彼は、この中で「愛」の概念について考察しているが、キリストの「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイによる福音書7章12節)との言葉を紹介して、愛の本質は、他者本位、相手本位であると言う。
しかし、元来日本には、このような「愛」の概念は存在しなかったと以下のように述べている。
「だから、男女の愛の接触を理想的なものたらしめようとするとき、ヨーロッパ系の『愛』という言葉を使うのは、我々にはためらわれるのである。しかし、愛ではない。…男女の結びつきを、翻訳語の愛で考える習慣が知識階級の間にできてから、いかに多くの女性がそのために絶望を感じなければならなかったろうか。…心的習慣として他者への愛の働きかけがない日本で、それが愛という言葉で表現されるとき、そこには殆どまちがいなしに虚偽が生まれる。…
毎日の新聞を見るだけでも足りる。『愛しているのに私を棄てた』とか、『私を愛さなくなったのは彼が悪い』などという考え方でそれらは書かれている。愛しているのではなく、恋し、慕い、執着し、強制し、束縛し合い、やがて倦き、逃走しているだけである。
…悔い改めと祈りに信仰の本質があり、人間として不可能なことを前提としているキリスト教的な愛の考え方、それと関連している男女の愛の考え方が存在している。つまり信仰による祈り、懺悔などがない時に、夫婦の関係を『愛』という言葉で表現することには、大きな根本的虚偽が存在している」
(伊藤整『求道者と認識者』新潮社、1962年)
伊藤氏は、神学者トマス・アクイナスの「私たちは、善の方向への努力を繰り返すが、常にそこから落ちてしまう。しかし諸々の善行の示す方向に神が実在するのである」という言葉を紹介して、「愛という上昇努力のないところにマイナスとしての罪は実感されないであろう」と言って、「マイナスを意識すること、罪なるものを意識することの大きな負担から我々日本人は解放されている」と記している。
伊藤整 氏は、自己中心的な愛と、聖書の教える愛を対比させている。
彼はクリスチャンではないが、彼の「愛」についての理解は、聖書の教えの核心を突いているのである。
次回、「聖書の教える四つの愛とは何か?」につづく
それではまた次のお散歩の時に。
Until our paths cross again!