これまた杉並区立郷土博物館を訪ねた話が長引いてしまっておりますが、取り敢えず常設展示の振り返りを。「常設展示室をひとめぐりすると、原始・古代から中世、近世、近現代へと続く、杉並のおよそ3万年の歴史のあゆみが理解できるようになっています」(同館HP)とは、いずこの郷土資料館でも同様のコンセプトですけれど、博物館の外観のわりには常設展示室が至ってコンパクトな印象でありましたよ。
余談ながら、入口脇(写真の右下)に見えているのは杉並区のご当地キャラ「なみすけ」でありますなあ。スギナミザウルス島という「島を船で旅立ち、憧れていた杉並区に辿り着きました」(杉並区HP)とのことですので、どうやら杉並生まれではないようです。なにせ、スギナミザウルス島というからにはおそらくなみすけは恐竜の類と思われますが、杉並区で恐竜の化石が見つかったような話は聞いたことがありませんしねえ…。
なみすけ以前には確か、杉並らしく杉の木をモチーフにした「すぎまる」というキャラクターが(少なくとも住んでいた1990年代初頭くらいには)あったはずなのですが、定着しなかったのですかね。今は区内を走るコミュニティバスの愛称に「すぎ丸」というのが残るばかりになっておるようで…。
ともあれ、「原始・古代のすぎなみ」から始まる常設展示でも恐竜の類の話は無い…てなことはともかくとして、展示を見て行くとしましょう。
出土品などから見ても杉並区内にも数々の古代遺跡があったのであるなと思うわけですが、住まっていた当時(今から30年ほども前ですが)は比較的近所に松ノ木遺跡なんつうのがあるとは知っていても、訪ねてみることもなかったなあと。およそ興味の対象でなかったと思い出すところながら、今ではそんな人が青森県の三内丸山遺跡へ行ったり、佐賀県の吉野ヶ里遺跡を訪ねたりしている…とは。変われば変わるものであるなあと、我がことながらしみじみと…してしまいますですよ。
当時から興味があったならば区内の遺跡も訪ね廻っていたろうかと、今さらのように思うわけですが、縄文や弥生の遺跡といったものは小規模なものならそこここから出たりもしましょうしね。と思いかけたところが、区内遺跡でも画期的な発見はなされておるようで。それがこちらの土器であるそうな。
昭和12年(1937年)の発見当時は「最古の土器として注目され」たというこの土器、発見場所の地名から「井草式土器」と命名されたそうな。今では「最古」ではなくなっていますけれど、「縄文時代早期(8000年~9000年前ころ)の土器形式として、その名を残してい」るそうな。
特徴としては土器の外面に見てとれる「撚糸文(よりいともん)」(「撚った紐を巻き付けた棒状の道具を使い、転がし押し付け」て作るそうな)が全面についていることということですが、上の写真でも出土したのは一部の破片のようですので、分かりづらいのですけれどね。
と、かように古い時代の話から展示は始まるわけですけれど、その後の古代、律令時代あたりの東国は田舎も田舎でしたから目立つことが無かったとも。ただ、古代の官道に置かれた宿駅のひとつが杉並区内にあったという説もあるようで。
「乗瀦駅」は『続日本紀』に唯一出てくる名前です。現在地比定には、読み方と関わって諸説があります。なかでも有力なのは、「ノリヌマ」と詠み、これが「練馬」になったという説と、「アマリヌマ」と読み「天沼」となり、現在の杉並区天沼だとする説です。
『続日本紀』によれば、駅は武蔵国府(現東京と府中市)から豊島郡衙を通り、下総国府(現千葉県市川市)への道筋にありました。
ルート的には杉並説に与したいところですが、発掘成果としては練馬説の方が有力(墨書土器や金銅製飾具などが発見されている)なようす。まあ、宅地で覆い尽くされている感のある東京(天沼とあっては荻窪駅至近のエリアで、思い切り住宅街でありましょう)では、大規模な発掘調査もままならないでしょうから、決め手には欠いておるようでありますよ。
で、展示の方は中世へと進んでいくことになるわけながら、長くなってしまいますのでこのあたりで一区切り。次回は鎌倉時代から先を続けてまいりたく存じます。





