東京・清瀬のけやきホールで「小川典子ピアノ・リサイタル」を聴いてきたのでありまして。クラシック音楽をよく聴く方ながら、もっぱらオーケストラの曲ばかりで、ピアノはオケと共演するコンチェルトで聴くことくらい。だもんで、ピアノの曲にもあまり馴染みがないのですが、ブラームスベートーヴェン、そしてショパンが並んだプログラムはピアノ素人にもとっつきやすいものでありましたよ。

 

 

ま、ピアノ素人ですのでピアニストのこともあまりよく知らないのですけれど、この方に関してはスウェーデンのBISレーベルからCDを出していることから、北欧系やロシアの音楽などをメインに弾いているのかなと思ったりしていましたが、今回のような独墺系やショパンといった王道プログラムも手掛けているのでしたか。ま、ピアニストにとっては外せない作品群なのでしょうけれど。

 

それにしても、これは500席あまりという中規模ホールでステージが近い、すなわち奏者が間近の印象の中だからこそなのかもですが、かなり強靭なタッチで演奏されるのであるなと思った次第です。

 

最初のブラームス、3つの間奏曲作品117の内省的なところでは影を潜めていたようなるも、続くベートーヴェンの「熱情」ではその強靭さが遺憾なく発揮されて、「おお、ベートーヴェン!」と思ったものですけれど、休憩を挟んだ後半に演奏されたショパンの4曲(ワルツ1番、バラード1番、スケルツォ2番、そしてアンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ)でもベートーヴェンの熱情がそのまま冷めやらないままに始まってしまったかのような…。

 

そんなわけで中規模なけやきホール全体がピアノの響きでいっぱいに満たされるのを聴いていて、予て思うところである音楽演奏家、とりわけ?ピアニストはアスリートでもあろうかということを、ここでも想起したようなわけなのでして。

 

ピアニストという人たちは指先だけで弾いているのではなくして、大袈裟に言えば力強さとしなやかさを兼ね備えた肉体で勝負しているのですものねえ。フィギュアスケートに擬えれば、練習に練習を重ねてトリプルアクセル(今や4回転?)を難なくこなせるようになるがごとく、難曲の数々を練習して練習してクリアできるようになる、それも芸術点的な要素を多分に加味して。

 

と、そんな思いを巡らせつつ聴いていたですが、都心のホールで開催されるお堅い?リサイタルではおよそないことながら、演奏者本人がマイクを握って曲目を解説するという一幕(地方都市の巡業公演ならではかも)の中で、今年2025年が開催年にあたるショパン・コンクールのことに触れておりましたなあ。

 

1927年に世界で初めて開催されるようになったピアノ・コンクールの、そこの事務局長が話していたこととして、コンクールは音楽とスポーツの要素を取り入れたものなのだそうで。つまり、芸術性の発揮しながらも競い合うという要素であるとか。

 

ただ、この話に続けて演奏者の言っていたことに「なるほどな」と思ったものでありますよ。曰く、スポーツの大会の場合、例えばオリンピックで金メダルを取るというのは到達点と認識されるも、音楽コンクールの場合は就職試験のようなものであると。

 

金メダルを取ったスポーツ選手は(次の大会を目指すという場合もありましょうけれど)斯界の第一人者として引退し、その競技そのものから離れることもありましょう(おそらくはスポーツ評論家とかスポーツ・コメンテーターとかで食っていける)けれど、音楽コンクールの優勝者(あるいは入賞者)にとってはコンクール後の活動こそが勝負どころになってくる、コンクールはその勝負の場に立てる資格審査のようなものだったわけですね。

 

そう考えますと、ブラームス晩年の作である間奏曲の楽曲説明のところで、枯れた…というように言われることもあるが、創作意欲を持ち続ける作曲家は年をとっても枯れるということはないのではないか、そんなふうに言っていたのが印象的でもありますね。ま、枯れるというのではないとしても、円熟した結果として作品の印象が枯淡の域に達する…てなことはありましょうけれどね。

 

まあ、そんなことでピアノ素人には楽しくも思い巡らしのある演奏会なのでありましたよ。