予てプラスチックごみの周辺を気に掛けておりますところから、いわゆる「ごみ問題」には些かの関心ありてなことでして、今回またひとつ、関わりありそうな一冊を手にとったのでありました。

 

 

『ごみと暮らしの社会学 モノとごみの境界を歩く』。内容としては、現前する「ごみ問題」をどうするかということではなくして、版元HPにはこのような紹介が。

私たちの日常生活に密接した「生活文化としてのごみ」に着目して、ごみとモノの境界がどこにあるのか、時代によってその境界がどう揺れ動いてきたのか、ごみとモノの価値の違いとは何なのかを、多くの雑誌や資料、フィールドワークから多角的に検証する。

学術書、研究書といっては大袈裟になりましょうけれど、ゴミ対策のハウツー本では決してなかったのですなあ。「生活文化としてのごみ」に着目するとありますように、「ごみ」というものの庶民文化の変遷とともに認識が変化してきた、現代において「そりゃ、ごみでしょう」と目されるものも、ある時期に「(ごみであるとして)発見された」てなふうにも言っておるわけで。

 

例えばですけれど、古来日本家屋は通風を重視してきた、つまり開放性のある建物だったわけですね。一方で、隙間風が吹き込むことなどには別途の対策を施すなどして(座敷と屋外の間に縁側を設けて、外と接する縁側の際には雨戸をたて、すこし引っ込んだ座敷の際には障子戸を設けるとか)。

 

その段階では、掃除というものは座敷に入り込んだちりやほこりを外に掃き出すことだったわけで、通風のよい中では掃き出したはずのちりほこりが逆流して室内へ…てなこともあったでしょう。さりながら、まあ、ともかく掃き出した、さっぱりしたというあたりに 掃除の満足感はあったものと思います。

 

ところが、戦後に大きく変わった住宅事情として集合住宅、いわゆる団地といった存在がある。アルミサッシを導入した密閉性の高い室内と、隣近所(上下も含め)が極めて近接する中では掃き出す掃除は必ずしも適当ではないわです。そこへもってきて登場したのが電気掃除機でありまして、室内のちりほこりを一網打尽に吸い込んでくれるという。

 

それまでは(結果はともかく)掃き出すことで納得していたところが、電気掃除機を使用すると「室内にこんなにちりほこりがありましたよ」と可視化されるようになりますな。見た方も「こんなにほこりが溜まっていたのであるか」と驚くような結果を目の当たりにしますと、これは是が非でも室内から排除しなくてはならないと思い至る。ひとつの「ごみの発見」であると。

 

一般の認識としてごみであるのかどうかは、使わなくなったもの、使えなくなったものをごみと捉えることもありましょうけれど、モノが豊かな時代になりますと、「使おうとすれば使えるけれどおそらくもう使わないだろう」という代物もごみとして認識(発見!)されるようになるわけですね。

 

ですが、「使えるけど使わないだろう」といった感覚は誰でも共通するところはありながら、モノであるかごみであるかの線引きには大いに個人差が生じることでありましょう。そこに登場するのが「ごみ屋敷」でもあろうかと。傍目のごみ屋敷は持ち主にとってはモノ屋敷かもしれず…。

 

著者は実際に(傍目で見て思う)ごみ屋敷の住人に対して丹念に聞き取りを進めておりましたよ。その方の場合には特に食品に執着があるでして、取り分け近隣から見れば「何とも迷惑な!」と映ってしまうケースなと。何しろため込まれた食品が腐っていようと、虫が湧いていようとお構いなしとなれば。

 

ただ、本人にとってその(ごみならぬ大事な?)モノはそこにあることが大切なことのようなのですなあ。なんとなれば、長年にわたりスーパーなどで試食販売員に従事し、(自分なりに)満ち足りて活躍していた(病を得た今ではできない)ことを偲ぶよすがとなっているというのですから。いわば自宅に溢れた食品の数々が自らの「存在証明」でもあると。

 

こうなってくると、問題はごみなのではなかろうというふうにもなってきますが、そも本書がごみ問題とその対処などを扱う本ではないことが改めてよおく分かってくるのでありますよ。もちろん、自治体やらケースワーカーやらと協同して対応するてなこともあるわけですが、ここではその対処法を示すことではなくして、これを一例にごみにまつわる認識が一様ではないことが紹介されておるのでもありますね。

 

とまあ、個別ケースではいろいろな事情なり背景なりがあるのではありますが、こと世の中にごみ(とされるモノ)が溢れかえっているような状況が前提にあること、この方面は経済学などの範疇になるかもしれませんですが、それ自体を考え直さないとならないところにあるのではないですかね。各種製品の工場では毎日毎日膨大な数のモノが生産されていて、そんな映像を目にしますと「いったい、そんなに誰が買うんだろう」と思うこともしばし。何かが違う、どこかの歯車をかけかえなきゃいけんのでは…と、改めて思ったものでありましたよ。