信玄ミュージアム@甲府の常設展示室を眺めて、もっぱら武田信虎と躑躅ヶ崎館のお話にばかりで終わってしまいましたので、続きを少々。といって、特別展示室の方は撮影不可で画像はありませんので、展示を振り返りつつ、武田神社にも(以前行ったことはあるのですが)立ち寄ったというお話でして。

 

 

そも武田神社は甲斐武田氏の本拠として知られる躑躅ヶ崎館の跡地にある、とは先にも触れたとおりですけれど、神社の境内に入るにはまずこの朱塗りの橋、神橋を渡ることになります。武田氏の居館であった当時の主郭中心部に現在の本殿・拝殿が設けられていますので、あたかも濠を渡り越して城跡に踏み込むがごとしの印象です。

 

 

橋を渡った先にある医師団の両側には高く石垣が積んでありますけれど、いかにもお城然としている分、信玄らの古い時代のものではなくして、豊臣・徳川支配時代に組まれたものかもしれませんですね。

 

 

余談ながら、鳥居をくぐったすぐ右側には「太宰治の愛でた桜」という解説板が。美知子夫人との新婚時代をしばし甲府で過ごした太宰は『富嶽百景』などの有名作を残したわけですけれど、甲府住まいの散歩の途中にでも立ち寄ったのですかね。『春昼』という一編で、ここの桜に触れているそうでありますよ。と、太宰はともかくとして、石段を上がって参道をまっすぐに進めば、拝殿に至ります。

 

 

土地土地に自慢の?お殿様というのがいて、駿府では今川ではなしに徳川家康でしょうし、肥後熊本では細川でなくて加藤清正とか。甲斐国でも武田氏滅亡の後に甲府城に寄ったお殿様は何人もおりましょう(その一人が柳沢吉保だったり)けれど、やっぱり武田信玄なのですよねえ。領国支配の拠点が今の甲府駅近く、甲府城に移った後も信玄ゆかりの場所は何かとありがたがられて…と思えば、実はこの神社、わりと新しいのですよねえ、思いのほか。

大正四年(一九一五)大正天皇の即位に際し、晴信公に従三位が追贈され、これを機として山梨県民はその徳を慕い、官民が一致協力して、社殿を造営、大正八年(一九一九)四月十二日、鎮座祭が盛大に齋行されました。(武田神社内解説板)

甲府城が造営されると、おそらく躑躅ヶ崎館跡は顧みられることが無くなっていたか、さはさりながらなんとなく遺徳を偲ぶ風はあって手つかずの土地になっていたか、とにかく新しいわりに神社の領域がかなり広いのでありますよ。それだけに、なんとか昔々を思うよすがのようなところもちらりほらりと。

 

 

 

本物の富士山を借景にした庭園とは何と贅沢な!ですけれど、この主郭庭園の看板近くに昔のよすがのひとつがひっそりとありましたですよね。

 

 

葉っぱが茂って分かりにくいですが、清水が湧き出しておりまして、神社の説明板に曰く「一説によると信玄公の御息女誕生の折、産湯に使用した事に因り「姫の井戸」と名付けられたと云い…」ということで。ほとんどの参拝者は「姫の井戸」の向かいにある水琴窟にばかり目を奪われて、こちらはスルーだったようですけれど、「飲用可能」ということでしたので、試しにひと口ごくりと。なるほど癖の無い水とは思いましたが…。

 

もうひとつのよすがは、拝殿・本殿のある主郭を西側、かつて躑躅ヶ崎館の時代には西曲輪と呼ばれた場所ですな。今ではただの雑木林のように見えますけれど、わざわざ信玄が嫡男・義信の婚姻に際して増築したそうな。専用の出入り口もある新たな曲輪に義信を置いて甲府盆地の広がりを眺めさせ、武田家当主となる意識醸成を図ったのでもありましょうか。

 

 

ただ、歴史が物語るのは信玄から義信へ、うまい具合に継承が行われたわけではないということですなあ。なまじ濠で区分けて独立感のある西曲輪を設けたがために、信玄排除の密謀を企てやすくなってしまったのかとも。

 

 

てなことで、武田神社にはもそっと武田氏居館としての名残りが感じられるところはあるようながら、あまりの暑さに熱中症を危ぶんで早々に退散することに。信玄の時代には、甲府もかほどの暑さに悩まされることもなかったのであろうなあ…などと思いつつ…。