ちょっくら足を延ばして、また信州・諏訪の美術館へ。昨秋にも訪ねてはおりますが、展示も変わっておりましょうし、季節も異なる。JR中央本線の上諏訪駅から歩くと少々かかるものですから、取り敢えず諏訪湖畔にある美術館にたどり着くと、まずは湖畔に出て木陰でひと息ついた次第ですが、湖の様相は季節でずいぶんと違うものであるなあと。

 

 

秋にはただただ、鏡のような湖面が広がるばかりだったのですけれど、夏はかくも水草(?)に覆われていようとは。ま、かるがも親子がすいすいというのも、季節感でありましょうかね。

 

と、しばし諏訪湖を眺めて休息ののち、初めに訪ねたのは北澤美術館でありますよ。折しも開催中の関西万博にあやかってか、『万国博覧会のガレ』という特別展が開かれておりました。ガラス工芸をメイン・コレクションとしている美術館らしいところですね。

 

 

展示されておりますのはエミール・ガレとともにドーム兄弟の手にもよるアール・ヌーヴォーの作品、そしてその後、アール・デコの時代を象徴するルネ・ラリックが少々といった具合で、これは同館の基本的な設えでもありましょう。

 

 

それでも今回は、万博との関わりを中心に解説されている点が興味深いところ。これを見ていきますと、なんだかガレは万博とともにあったのであるか…と思ったりしてものでありますよ。

 

ロンドンで開催された初の万国博覧会に遅れること4年、1855年に第1回目のパリ万博が開かれた際、エミール・ガレ(1846年生)は子供だったわけですが、このときは「高級ガラスと陶器の企画販売業を営」んでいた父シャルル・ガレがガラス&陶器部門に出品し、佳作を得ていたとか(ちなみにブランプリはバカラ)。その後も万博の度ごとにシャルルの出品・受賞は続いたようです。

 

そんな万博と縁ある事業を営む父親とともに、エミールが万博会場を目にしたのは1867年の第2回パリ万博だったそうで、このときにジャポニスムの風はエミールにも吹いたようですな。今さらですけれど、ガレのアール・ヌーヴォー作品として夙に知られる題材は草花や虫だったりすることからして、そもジャポニスムの影響なのであるかと思ったり。美人画で知られるあの喜多川歌麿にも『画本虫撰』(えほんむしえらみ)なんつうのがあるくらいですし。

 

 

で、こちらはエミール・ガレが自ら初めてエントリーしたという第3回パリ万博(1878年)の出品作品であると。父親に倣って万博での成功を夢見、またジャポニスムを吸収した独自作品というわけですな。ただそこにはさらにひと工夫あったのがガレたるところでしょうか。本作には「微量のコバルトで薄青色に発色させたガレ社オリジナルのガラス素地」が用いられているそうな。これを称して「月光色ガラス」とはネーミングの妙もあって大きな反響(ガラス部門と陶芸部門で銅メダル)を呼んだそうです。

 

 

続く第4回パリ万博(1889年)でもガレは大活躍。ガラス部門で初のグランプリ、陶芸では金メダル、(1884年頃から手掛け始めたという)家具部門でも銀メダルと受賞したそうな。さりながら、ガレの名前ではガラス工芸で知られるものの、陶芸作品もあったのであるか…と思うものの、そも父親が陶器も含めた事業を行っていたのですから、無縁のものではなかったのですな。

 

 

万博出品作とは記されていませんでしたけれど、ガレが伊万里風の意匠を取り入れて作ったもの。用途としてはインク壺なのだそうで。これもまたジャポニスムを意識しつつ独自性を出して一品かと。

 

ところで、万博での評価はその後の事業を左右する影響力があったことをよく知っていたガレは(といってガレだけではないのしょうけれど)、こんな出品案内のカードを作っていたということでありまして。

 

 

会場内のどのあたりに出展ブースがあるのかを告知していますので、体のいいチラシということになりまな。そんなこんなで思い至るところは、当時時の万国博覧会は今の見本市にも近いものであったかと。今さらですけれどね。

 

とまあ、万博を舞台に快進撃を続けるエミール・ガレに対してこの後ほどなく大きなライバルが出現。ドーム兄弟の登場となってくるところですけれど、ちと話が長くなってきましたので次回に続く…ということでご容赦を。