先ごろ「信玄公祭り」を覗いてきた…というよりも実際は甲府在住の友人と飲んできたわけですが、甲府まで出向いたついでにひとつ立ち寄りを。先月のはじめ、石和温泉に出向いた際、駅の観光案内所で展覧会告知のフライヤーを目にしていたものですから、折を見て出かけようと思っていたところでして。ひと月経って、折しも桜満開の山梨県立博物館を訪ねたのでありましたよ。

 

 

その山梨県立博物館では開館20周年記念特別展として『武田勝頼-日本に隠れなき弓取』展が開催中。武田勝頼といえば、信玄の衣鉢を継ぐ大将とも、武田を滅亡に至らしめた凡将とも言われたりするところながら、しかしてその実体は?てなあたり、近年の研究で何かしらの発見があったりしたかいね?と。何かと「え、そうなの?」みたいなことがあったりするものですのでね。

 

 

そも甲斐武田の歴史を知る史料とされる『甲陽軍鑑』巻第六(命期の巻)には勝頼のことを「強過ぎたる大将」と記されているそうな。ただ、この「強過ぎる」とはどうやら誉め言葉ではないようで、国を滅ぼしてしまう大将の四つの類型のひとつとして挙がっているのが「強過ぎる大将」であると。現代語訳の展示解説にはこんなふうにありましたな。

父信玄を越えようとして弱みを見せず、何事にも強く働こうとするあまりに、長篠合戦で大敗して国を危うくしている。

このあたりの記述が後の勝頼像に影響してきたのでもあろうかと。ただ、先に解説書を読んだ『吾妻鏡』でもそうですが、『甲陽軍鑑』は必ずしも鵜呑みにはできない記述もあるようで、歴史のありようを後世に誤った思い込みをさせるところもあったわけですね。名流武田の滅亡を、勝頼一身に背負わせてしまっているような。

 

では、勝頼の時代、敵対していた武将たちはどう見ていたのか。そもそも本展の副題にある「日本に隠れなき弓取」と評したのは、最終的に武田を滅亡させた織田信長その人であると伝わるそうな。徳川家康に仕えた大久保忠教の著作『三河物語』に書かれているのであると。

 

ま、これは伝聞にすぎないかもしれないとして、展示に見る「織田信長書状(天正二年六月二十九日付)」を見れば、信長が「勝頼侮り難し」と見ていたことが分かりますなあ。やはり現代語訳の展示解説にはこのように。

勝頼は若輩であるが、信玄の掟を守り謀略を駆使するので油断できない。五畿内の備えを疎かにしてでも、甲斐・信濃への戦いに集中すべきという意見はもっともだ。

解説では書状の宛先になっている上杉謙信もまた同意見であると説明されるのですが、上の文を読む限り、勝頼に高い評価を信長と謙信のどちらが先に言ってどちらが肯ったのか、判然としないように思うものの、ともあれ、当時その名を広く知れ渡らせていた信長と謙信のいずれもが勝頼に「なめたらあかん」という意識を持っていたことは確かなようで。

 

ちなみに五畿内方面には将軍足利義昭やら六角氏、三好氏やら曲者がいたわけですが、そっちの備えを疎かにしてでもとは、生半可には対抗できないという意識ですものね。

 

そうであるにも関わらず、後世の勝頼評価が地に落ちるのは偏に長篠合戦の大敗によるものとなりましょうか。ただしこれも従来の見方では「鉄砲を駆使した信長の革新性」VS.「騎馬隊での突撃を繰り返す武田の古さ」という点ばかりが注目され、結果として「勝頼の指揮官としての低能」さが強調されることになっているわけですが、近年では、鉄砲VS.騎馬というような単純な図式で見ることは改められつつあるとか。

 

勝敗の分かれ目として、織田方が鉄砲隊を備えるに加えて城構えのような陣地を造り上げていたことと、勝頼が敵軍を過小評価していたということはありましょうか。決戦前日になった段階でも「武田勝頼書状(天正三年五月二十日付)」には「信長・家康ともに討ち果たせるだろう」と書かれてあるということで。ま、織田方が勝頼侮り難しと見て入念に準備したのに対して、勝頼の方はなめていたのですから、ちと凡将感が漂いますが…。勝頼を下げ、信長を上げる材料として鉄砲隊のひらめき登用がことさらに語り伝えられてきたのでもありましょう。

 

ともあれ、天正三年の長篠合戦で大敗を喫するや、「ああ、名門甲斐源氏もこれまでか…」てな感じに歴史の表舞台から武田は消えていくように思えるところながら、実際に織田・徳川連合軍に信濃・甲斐へと侵攻されて武田が滅亡するのは天正十年(1582年)のことですので、勝頼は7年ほどの間、ふんばりを見せたのですなあ。

 

上杉謙信との和睦、安芸毛利氏・伊予河野氏とも同盟、北条氏とは甲相同盟を強化などなど、「信長に東西から対峙する体制」構築に余念が無かったということです。しかしながら、謙信没後に越後で生じた御館の乱の紆余曲折を経て勝頼と上杉景勝は誼を通じ、甲越同盟が成立することになりますと、長年大事にしてきた甲相同盟が崩壊してしまうことに(なんとなれば、御館の乱で上杉景勝と敵対した上杉景虎は北条氏康の息子であったわけで)。

 

そんなこんなの中、越後の一部をも得た勝頼の版図は太平洋と日本海とを跨いで中部日本に大きく広がるものともなった時期があったということですので、長篠合戦後に零落傾向となっているのに新しく新府城構想を立ち上げるとはこれまた無謀な…てな印象を持つのは誤りだったのでしたな。一時であるにもせよ、確固たる勢力であったのは事実ですから、それを見据えた城造り、さらには国府造りだったようで。

 

てなことで、すぐさま零落したわけではない武田勝頼、振り返ってみるに滅亡に至る一番のポイントは、長篠合戦で負けたということ以上に、その戦いで武田軍団子飼いの将を一度にたくさん失ったことにもあるような。

 

当初は信玄の嫡男・義信の陰で「諏方腹」などと言われていた四郎勝頼は元々家臣団のとりまとめに苦労していたようですが、信玄の意向と思えばこそ付き従ってきた武将たちもいたことでしょうに。残った武将たちも信玄が進めた甲相同盟を破綻させたうつけにも見えたでしょうか。

 

一昨年(2023年)秋、折りあって甲斐大和に武田滅亡の地にある景徳院を訪ねましたけれど、武田家の菩提を弔うべくこの寺を建てたのが徳川家康であったとは…。山梨県の県立博物館の展示ですので、いささかなりとも「勝頼寄り?」と思ったりもするものの、それにしても勝頼無念…てな気がしてきたものでなのでありましたよ。