マレーシア・マラッカのオランダ広場にヴィクトリア女王メモリアルの噴水があって…というお話をした矢先に、ヴィクトリア朝時代に生まれた英国作家サマセット・モームを取り上げるのは何とも奇しきことのような(もっとも、モームはパリ生まれだそうですが…)。
ですが、読み始めのきっかけはマラッカの話とは全く関わりのないところにあったのですな。先に映画『ゴーギャン タヒチ、楽園への旅』を見て、束の間のタヒチ滞在だけでゴーギャンの生涯を知った気になってはいけんだろうなあと思った次第。で、もそっと何か…と考えたときに、モームの小説『月と六ペンス』がゴーギャンをモデルにしていたなと思い出したという。このほどは古典新訳文庫で読んでみることに。
「このほどは…」と申し上げましたのは、読み始めて早速に既視感ならぬ既読感があったものですから。過去記事検索によりますと、2008年5月頃に小学館「地球人ライブラリー」の一冊として出ているものを、やっぱり読んでいたのでした。そのときは大岡玲の訳文を「なんと読みやすい!」と思ったものでしたが、このほど古典新訳文庫で読んでも、いわゆる世界名作全集にありそうな小説がこんなに読みやすくていいのかいねと。ま、モーム作品は元から小難しい文章ではないのでしょうね、おそらく。
と、それはともかく、結局再読だったと知ることにはなりましたが、ストーリーの展開はおよそ覚えておらず、元来が株式仲買人という職業であったこと、突然「絵を描く」としてパリに行ってしまい、やがてタヒチにたどりつく…という大枠こそ、ゴーギャンに擬えられるところかと思いますが、要するに主人公のストリックランド(英国人に設定されています)はゴーギャンの生涯からインスピレーションを得たにせよ、モームの創作した人物であると改めて。でないと、ゴーギャンがあまりにも可哀そうになるくらいの人物像ですのでね。例えばこんな…。
ストリックランドのユーモアは皮肉と嫌味だ。受け答えは無礼で、ときにはそのものずばりの真実を突いて周囲を笑わせることもあったが、これは珍しいからこそ効き目のある表現方法で、誰も彼もやりだしたら笑いなど消える。
これはもっぱら、ストリックランドの語り口を評した部分になりますけれど、いわんや行動においてをや。人間が集団として社会生活を営む中では、はみ出すのも必定といった人物を最極端にしたてな感じかと。ま、芸術家として名を成す方々の中には、多かれ少なかれ、そうした要素を保持している場合があるとはたくさんの例があるようにも思いますが…。
ただ、小説として描き出すには、多かれ少なかれ程度としては食い足りないわけでして、とにもかくにもあらゆる一切合切を犠牲にしても(当の本人には「犠牲にしている」という感覚も持ち合わせていないものと思いますが)思うところに向かって邁進する(ある種の)超人的な存在が必要だったのでしょう。
先の映画では食うに困ったゴーギャンがタヒチの街中で自作の露店売りをする場面がありましたけれど、そんな現実感(というかどうか)からは超然と、飢えようが病いに冒されようが、自らが納得する作品を描き上げることのみをひたすら考えているのがストリックランドでありましょう。
これを理想の姿というには余りにも…と思うこと自体、すでに凡人の証になろうかと思いますが、それなら「凡人でいいや」というのが、凡人の正直な思いですな。
小説のタイトル『月と六ペンス』は(巻末の解説にありますように)「月」を「理想」に、「六ぺンス」(という小銭)を「現実」に擬えているわけですが、意味合いはイコールでないものの、日本のことわざでは「月とすっぽん」が思い浮かんだりして、さしずめ「それなら、すっぽんでいいか…」てなところかと。
高いところで光り輝き、およそ手が届くものではないところにひたすら手を届かせようとする。理想に向かうとはそういう感じですかね。その過程では、その他一切の物事に拘ることをしない姿勢が必要ともなる。そうしたところを極端に体現したストリックランド、どうしても近くにはいてほしくないタイプだなと思ってしまうのでありましたよ。