昨日(2/22)は相当な後出しをもってお休みを頂戴いたしましたですが、一応のところ予告無しのお休みだけはできるだけ避けるようにしておるもので。

 

それはともかく「忙中閑あり」ではありませんが、先週(2/15)に引き続きまして近隣の公共施設で開催される文化・芸術講座(「民藝」への招待-柳宗悦が提唱した民藝の魅力-)の第2回「これぞ〈民藝〉のモノ」を聴いてきたのでありますよ。前回はもっぱら民藝運動主導者たる柳宗悦のことを取り上げていたわけですが、今回は柳とともに民藝運動を担った人たち、そして「民藝」とされるモノが次々スライドで紹介されるといった内容でしたな。

 

と、ここで「民藝運動を担った人たち」という言い方をしましたのは、民藝運動に関わって常々抱く疑問と前回に申したあたりと関係するのでして。講座では、具体的にはバーナード・リーチ、富本憲吉、濱田庄司、河井寛次郎、芹沢銈介といった人たちが紹介されたわけですが、これらの人たちは、考えてみればそれぞれに陶芸や染色という分野に分かれるも、いわゆる芸術家の面々でありましょう。

 

「民藝」が(先日も触れましたように)「無名の工人(個人作家ではない)が作り、一般民衆が日常で用いる器、衣類、品物」であるならば、かかる芸術家の面々が制作する「作品」は「民藝」ではなかろうに思うも、民藝にまつわる展覧会などではともすると、運動を担った芸術家たちの「作品」がずいっと展示されて、うっかりするとそれを「これが民藝なのだねえ」などと思ってしまいそうになること、これが疑問というか、ジレンマというか、矛盾というか…。

 

では、民藝運動の担い手たちの役割がどういうものであったろうかと考えてみますと、地域地域の「無名の工人」に技術指導を行ったりしてのでもあるようでして、例えば民藝運動が盛んであった島根県の「しまね観光ナビ」にはこのような紹介も見られますな。

…民藝運動のメンバーだったイギリス人陶芸家・バーナード・リーチは、小泉八雲を愛読し、松江の街に自分の故郷との相似を見出して、親しみを持っていたといわれます。来待石を原材料とする黄色い釉薬は、リーチがイギリスで使うガレナ釉の発色と似通っていました。リーチの元に集まってきた陶工たちには、スリップウエアやハンドル作りなどを度々指導していたそうです。

リーチが島根の工人たちに芸術家を目指す指南を施したわけではありませんけれど、こうした取り組みを通じてモノ作りが活性化していったことが、民藝運動の展開だったのであるか…と思うと、またまた「うむむ…」となってしまうのでありますよ。

 

とにもかくにも、以前から思いめぐらしてきたあたりと今回の話を聞いたところからすれば、非常に個人的な受け止め方であるとしても、民藝(ないしは民藝運動)を楽しむ、親しむということは、まず何よりも「発見すること」なのではなかろうかという考えに至った次第。先に民藝運動を担った人たちは皆それぞれに芸術家であって、その作品はとても普段遣いできるものではない、「用の美」たりえないわけですが、運動に関わった芸術家たちが方々出向いて発掘した「民藝」も、見出された段階でいわば目利きが認めた「作品」と化し、やっぱり「用の美」たりえないものになっていくという側面もありましょう。

 

ですから、「民藝」はひとりひとりが(既存のブランドとは離れて、あるいはブランド化していることを知らない状態において)「誰が作ったか知らないけれど、これは!」というモノ(作品ではなくして)を発見することこそ、本意なのではなかろうかと思ったわけです。もちろん「これは!」と思ったモノは、手に入れた後に普段遣いする前提でのことですが。

 

普段遣いしながら、つくづく眺めたりして都度、にんまりしてしまうといったモノが発見できて、それを使っていくことの日常に対する満足感。モノをただモノとして見るだけではこうした満足感は生じないでしょうから、そんな感覚を呼び覚ました点では柳らの活動は大いに意義のあるものだったのでしょうけれど、あとは彼らの集めてきたものをありがたく拝見するというのが、必ずしも民藝の楽しみではなかろうに…とまあ、そんなふうに思ったものなのでありますよ。それだけに、これまで何度か触れてきている言葉ながら、民藝運動は「ふだんプレミアム」のひとつの表現形態でもあるような気がしてきたのでありました。