さてと、JR仙石線の多賀城駅に到着いたしました。ここもきれいな高架駅となっていましたので、てっきり震災の影響?と思えば、それ以前から仙石線の一部高架化は進められていたようで。もっとも、新駅舎の開業は震災後までもつれ込んだようですが…。ともあれ、朱塗りの門のようなデザインが施された駅舎が、この日の最終目的地である国特別史跡・多賀城跡への期待を膨らませるといいますか。
もっとも、多賀城跡に直接向かうには多賀城駅は決して近くはないのですなあ。下のマップ(「史都多賀城」観光パンフレット)でご覧のとおり、東西に走る鉄道が二本ありまして、上の方がJR東北本線、下がJR仙石線ですから、左上に位置する多賀城跡には東北本線の国府多賀城駅の方が圧倒的に近いわけです。
多賀城駅から国府多賀城駅まではおよそ2Km半ほどの道のりながら、途中の立ち寄りポイントのことを考えますと、多賀城インの国府多賀城アウトで巡ろうかと考えた次第でありますよ。では、案内の道標に従ってスタート!
ちなみに看板にある「野田の玉川・おもわくの橋」、そして多賀城碑に括弧書きされた「壺の碑」(つぼのいしぶみ)というのは、和歌に詳しい方はご存じなのでしょうけれど、要するに「歌枕」ということで。簡単に言ってしまえば、古来、和歌に詠まれてきたような名所旧跡を指す言葉かと。
松尾芭蕉が『おくのほそ道』にまとめるみちのくの旅も、歌枕を訪ねるという目的のひとつだったわけですが、こちらの看板だけで3つの歌枕が挙がっておりますように、東北、陸奥という辺境(昔のことです…)でありながら、松島なども含めて辺りには歌枕が点在しているのですなあ。これは偏に多賀城という北方を扼する役所があって、そこに官人たちが派遣されてきていたからでもあろうかと。中には、万葉歌人として有名な大伴家持もいたといいますし。
(家持は)延暦元年(782)に按察使兼鎮守将軍、同3年には持節征東将軍に任命され、蝦夷政策の全権を担って多賀城に赴任します。翌延暦4年4月には、緊急事態に備え、多賀・階上二郡を仮の郡から真郡にするよう政府に要請するなど、依然不安定な多賀城近辺の復興と整備に力を注ぎます。しかし、蝦夷に対しては積極的な制圧を行えないまま、同年8月28日亡くなりました。(多賀城市教育委員会編集『古今往来 多賀城人物伝』)
歌人のイメージしかなかった大伴家持には征東将軍を任されたりする一面もあったのでしたか…。もっとも、対蝦夷政策では捗々しい成果を挙げるにいたらず、その後に登場するのが坂上田村麻呂ですな。延暦十年(791年)、征夷副将軍に任じられるところから陸奥国に関わっていくようでありますよ。
と、またまた余談が長くなりましたですが、多賀城市そぞろ歩きの道すがら、立ち寄りスポットと目する多賀城市文化センターへと程なく到着。折しも2024年は多賀城創建千三百年とされていたことから、館内ロビーは祝賀ムードといいますか。
ですが、ここでは多賀城市文化センターそのものが目的地ではありませんで、館内の一角にあります多賀城市埋蔵文化財調査センター展示室こそがお目当てで。スペースとしては決して広いものではなかったものの、多賀城跡へと至る歩み出しの第一歩としては十二分な展示を目にすることができた次第。内容のほどはこの次の機会に触れてまいります。