さすがにマレーシアに行っている間のTV番組録画分は見終えたものの、それを消化せんがために日常の放送分も周回遅れで触れることに。こたびは、Eテレ『3か月でマスターする江戸時代』から第4回「“文治政治”は何を生んだ?」(1/29放送分)で見聞きした「ほおほお」でありますよ。
徳川五代将軍綱吉の治世を取り上げていたわけですが、とかく「生類憐みの令」の行き過ぎた対応が生んだ、とんでもないご時世であったというのがごくごく一般的な受け止め方であったかと。さりながらそうではないというのがこのときのお話でして、シリーズ全般に通ずる「昔、教科書で習った歴史のあれこれの中には、その後の知見・研究によって上書きされていることがあるのだあね」ということは、綱吉の政治に関しても同様というわけです。ま、歴史の上書きは江戸時代に限った話ではありませんですが。
本来的な趣旨としては、広くあまねく無益な殺生はやめましょうということなわけで、まずは歴代将軍の嗜み?でもあった「鷹狩」を取りやめるあたりから始まったとも。鷹狩の鷹を養育する必要がなくなる⇒鷹の餌として犬肉を用いることもなくなる⇒野犬が増える⇒危険な野犬を幕府もそのままにしておけない⇒中野の大きな犬の収容施設が造られる…と、「風が吹けば桶屋が儲かる」さながらの話が展開していくことに。犬の収容施設というのは大事にせねばならんが故の愛護施設かと思えば、どうやら隔離施設だったようですなあ。
このあたり、将軍の意を忖度しすぎた幕府官僚の暴走的な施策でもあったようですが、綱吉自身は儒教・仏教の宗教観を強く抱いていたようで、殺生禁止にも通じるのが穢れを嫌う方向性であったとか。武家の棟梁ながら「血が流れる」ことを穢れとして、例えば怪我をした武士が血を三滴したたらせるようであっても江戸城に登城禁止となっていたようで。で、こうした綱吉の考え方が、世に『忠臣蔵』として伝わる元禄赤穂事件の元にもなるのであると。
普通はいわゆる喧嘩両成敗であるのに、吉良には御咎め無しの一方、浅野内匠頭は切腹となってしまうのはどうしたこと?と見て、浅野贔屓、赤穂浪士贔屓が募るところながら、そもそも綱吉にとってこの事件は喧嘩とは映っていない。ですので、両成敗もへったくれもなくして、ひたすらに浅野は江戸城を血で穢した極悪人という認識しかなかったというのですなあ。綱吉の側としては、そういう見方であったとは…。
と、『忠臣蔵』がらみの話としてもう一つ思い出されますのは、昨年(2024年)暮れ放送分のEテレ『古典芸能への招待』、「京の冬・顔見世への誘い」で紹介された演目『元禄忠臣蔵 仙石屋敷』でありましょう。台本自体は昭和になって書かれた新歌舞伎ということですので、お江戸の当時に受け止め方とは違っているやもしれませんですが、ここで大石内蔵助が語る吉良邸討ち入りの真意は、「そう考えれば、さもありなむ」と思わせてくれたような。
単純にいえば、喧嘩両成敗の認識の下、吉良は安泰、浅野は切腹というアンバランスな裁定を、浪士たち自らの手で吉良を討ち取り結果のバランスをとるというふうに見えるわけですが、大石内蔵助(演ずるは片岡仁左衛門)の語るところにれば、お上(幕府)の裁定に何ら疑義を呈するものではないという。では、真意のほどは?となるわけです。
江戸城内で刀を抜くという禁を犯したからには、切腹という幕府の裁定そのものは致し方はない。それに何ら不服を訴えるものではない…のではあるが、その禁を犯すに至った浅野内匠頭としては、よっぽどの思いを持って切りつけた相手をその場で討ち果たせなかった、それこそがさぞや無念であったろうと、内蔵助は語るわけですね。その無念をこそ、今は亡き主に代わって家臣が遂げたのだと。
このあたりのことは、何年か前に「運命のクロスヒストリー 徹底捜査 忠臣蔵」というTV番組でも紹介されましたですが、個人的には歌舞伎公演でもって至って得心しやすいところではありましたよ。されど、果たしてお江戸の人たちはどう見ていたのでありましょうねえ。言うまでもなく、赤穂浪士の面々は亡き主君の仇討ちを見事にしおおせた忠義者として、後に歌舞伎などに取り上げられ、大人気を博すわけですが、リアルタイム綱吉の時代にも、忠義者との見方は武家のみならず庶民の間でも広まっていたようで。背景には、儒教精神にも溢れた綱吉自身が「忠孝を重んじねばならんよ」というお触れを出して、それが世に浸透していたからでもあるとは、なんとも皮肉な話といいましょうか。
ともあれ、通り一遍の仇討ち話ではない赤穂事件、時代背景をよく知っておくのは理解の助けになりますですね。