すでに終映となっておりますので取り上げるにはちと遅いのですけれど、

この間シネマ歌舞伎の一作「廓文章 吉田屋」を見たというお話を。

 

 

前段に主演の片岡仁左衛門、 坂東玉三郎のインタビュー映像が置かれてありますので、

「廓文章吉田屋」という作品の、というよりもその作品を含む大阪歌舞伎のなんたるか、

そんなあたりのことに「ほお、そうであったか」という気付きもあったりして。

 

仁左衛門の曰く、東京の歌舞伎は「かっこよさ」を見せるのに対して、

大阪の歌舞伎は人情を描き出すといったことでもあるというのですなあ。

 

この作品もそうした大阪歌舞伎らしい作品のひとつであると思われるわけながら、

話としてはかなり薄っぺらな印象がありますなあ。そんなに都合のいい話はなかろうと。

 

傾城夕霧に入れ込んだ大店の(いかにもな)若旦那は勘当されて落ちぶれた風情。

ところが、自分が会いに来なくなって夕霧が病に臥せってしまったと聞いた若旦那が店に夕霧を訪ねると

回復基調にあったほかの客の座敷に出ており、これが面白くない若旦那、すねまくるわけです。

 

やがて夕霧と再会を果たすも痴話喧嘩的なやりとりが展開、

そんなこんなのうちに若旦那の店から勘当も解くし、夕霧身請けの金も出すという知らせが届く

とまあ、「そんなあほな…」とあきれるしかないような。

 

ですが、そのような作品が繰り返し繰り返し上演される理由はといえば、

話そのものよりも演技を見るための作品であるからなのであろうなと思ったのでありますよ。

仁左衛門が若旦那を「かわいく」、現実的ではないほどに演じると言っていたのは

そうした作品であるからこそなのでありましょう。

 

先のあらすじを追っただけでも落語の中の若旦那的なところが思う浮かぶわけですが

それを裏切らないさまをばかばかしいだけでならない演技で見せる、これが妙味と言えるのかも。

ここでの仁左衛門はそのような若旦那を実に見事に?演じているのでありますよ。

 

歌舞伎を見るに、かっこよさで勝負してくれる分にはわかりやすいし、とっつきやすい。

それに比べると、大阪歌舞伎は多分に「通好み」であると言えそうであるなと思ったものでありました。