どうにもこうにも怖いものが苦手でして、ホラー映画などは予告編も見たくない…てな話は
何度かしておりますけれど、そうしたころの絡みでもって泉鏡花の小説には
これまで近付くことなく過ごしてきたのでありますよ。
ですが、先ごろ坂東玉三郎主演のシネマ歌舞伎「天守物語」を見に行ってみましたら、
これが何と!泉鏡花の原作によるものだそうではありませんか。
何とも不用意なことと我が身を責めるも、時すでに遅く…(笑)。
ただそうは言っても、泉鏡花の原作を文字通りに映画化したとかそういうものでなくて
よかったなあとつくづく思いましたですよ。普通に映画化したものであったならば、
原作の妖しの世界をこれでもか!とばかりに怖く怖く描き出すようにもなっていたでしょうから。
それに比べて、シネマ歌舞伎は映画館で見るといっても元々は歌舞伎ですし、
見たところこの作品は歌舞伎であるというよりも、歌舞伎の様式を意識した芝居であるようで。
それだけにストレートな怖さ(これも受け取る側次第ですけれど)をがんがんぶつけてくるような
演出では無かったので、ほっと一息というところではありました。
ちなみにあらすじをシネマ歌舞伎のサイトから引っ張ってみますと、
ちと長いですがこんな具合になります。
白鷺城の最上階にある異界の主こと天守夫人の富姫が、侍女たちと語り合っているところへ、富姫を姉と慕う亀姫が現れ、宴を始めます。その夜、鷹匠の姫川図書之助は、藩主播磨守の鷹を逃した罪で切腹するところ、鷹を追って天守閣最上階に向かえば命を救うと言われ、天守の様子を窺いにやってきます。
しかし富姫に二度と来るなと戒められて立ち去りますが、手燭の灯りを消してしまい、再び最上階へと戻り火を乞います。すると富姫は最上階に来た証として、藩主秘蔵の兜を図書之助に与えますが、この兜から図書之助は賊と疑われ、追われるままに三度最上階へ戻ってきます。
いつしか図書之助に心奪われた富姫は、喜んで彼を匿いますが、異界の人々の象徴である獅子頭の目を追手に傷つけられ、二人は光を失ってしまいますが...。
要するに伝奇ファンタジーともいうべき内容といえましょうかね。
話が始まる前に玉三郎による解説映像が流れまして、
この部分はあたかもEテレ「にっぽんの芸能」でもあるかのよう。
そこでは、まずもってお城の天守、
最上階から富姫の侍女たちが下界に向けて釣り糸をたらしているという
トップシーンに関して触れ、「お城の上から釣り糸をたらして、何やってるんだ…」てなふうに、
さも理屈に合わないといった受け止め方をしてしまいますと、
鏡花ワールドもはいそれまでよとなってしまう、そんなことを語っておりましたなあ。
確かに何のファンタジーでもそうですが、
「そんなことがあるはずはない」と思ってしまっては馬鹿馬鹿しくなるばかりでしょうから、
そこはそれ、そもそもあるはずのない「異界」(そう思っているわりには何故か怖がりですが)を
どうそれらしく描き出すかという点に工夫があるわけで、それをそのまま受け入れて
楽しむ姿勢が必要と言えるのかもしれませんですね。
ま、話の筋はそうした仕立てになっているわけで、
下手に突っ込めば突っ込みっぱなしになりますが、
ここで目の向けどころはやはり玉三郎の芝居ということになりましょうか。
ただ、先日見た「鷺娘
」のような舞踊ではありませんから、踊りの見事さを云々するものでなく、
また昨夏の「ふるあめりかに袖はぬらさじ
」のように人物表現を見る芝居とも異なりますので、
ある意味、玉三郎の腕の見せ所は奈辺にありやと思ったりもしてしまう。
ですが、しばらく前に玉三郎自身が「鷺娘」を語るEテレ「にっぽんの芸能」で紹介されたように、
そのままでは男の手でしかないものをそうでなく見せる振りに心を砕いているといったあたり、
「鷺娘」そのものを見たときにはおよそ気にならなかったところが、この「天守物語」では
「ああ、なるほど男の手だ」と思ったものの、それをそうみせない動きを作り出しているのだなと
感じたのですな。これはこれで、見た甲斐がある気になったものです。
いつぞやからか、気付いてみれば坂東玉三郎の芸に接するたびに
「この人、すげえなあ」と思ってばかりですが、
今回のような他愛もない話(結局のところかような物言いですいません、鏡花先生)でも
どこかしらに「ほお」と思える部分が見出だせるとは。
歌舞伎の芸は後の役者とへ引き継がれていくものではありましょうが、
こういう人がいると、引き継ぎ手の人たちは大変でしょうなあ。
かような芸を一度見てしまうと、それを前提の眼鏡でもって見てしまうでしょうから。