ということで、JR山手線鶯谷駅が最寄りとなる台東区立書道博物館を訪ねたというお話はようやっと、企画展『漢字のはじまり』を振り返ることになるのでありまして(会期は12/15で終了)。
中庭から見て正面に常設展示のあった古い建物、企画展は左手の新しい建物の方で行われていますのでそちらへと向かいますが、途中、中庭で見かけた中村不折にちとご挨拶を。
パレットを携えた姿は画伯そのものですけれど、ここの博物館ではもっぱら書家の側面がメインなのですよねえ…とそれはともかく、漢字のお話です。あいにくと館内は撮影不可ですので、文字の変遷そのものを画像でたどることはできませんけれど、説明を尽くす(?)ことで些かなりとも思い浮かべるよすがとなりますかどうか…。
まずもって漢字の元である「甲骨文字」ですけれど、「殷時代後期にあたる約260年の間に作られたもので」あると。たいたい紀元前13~12世紀にあたりましょうけれど、それから三千何百年も経過しているのですから、字形の変遷があるのも当然と言えましょうか。殷の時代だけでも、研究者によれば5期に分けることができるようで、これはまあ、流行り廃りのようなところもありましょうけれど。
- 第一期(殷王22代・武丁の時代)キーワードは「雄偉」。ほとんどが大きな字でかたちも美しく、ザックリと豪快に刻まれている。
- 第二期(23代・祖庚、24代祖甲の時代)キーワードは「謹飭(きんちょく)」。小ぶりになるが、整った構えは崩れていない。
- 第三期(25代・廩辛、26代庚丁の時代)キーワードは「頽靡」。期間が短く、現存量少。字も雑で整わず、まとまりにかけている。
- 第四期(27代・武乙、28代・文武丁の時代)キーワードは「勁峭(けいしょう)」。第一期を思わせる字姿で、線の鋭さがさらに加わる。
- 第五期(29代・帝乙、30代帝辛の時代)キーワードは「厳整」。字はとにかく小さくて細かいのが特徴。
ちと細かい説明ですけれど、そもそも卜占に使われた甲骨文字だけに第三期で現存量が少ないのは、占いを疎かにしていたとも言われるようですな。この時の二人の王はいずれも在位期間が短いからでもありますが、占いを疎かにしたが故の短命王権てなことが後々言われたのではなかろうかと。一方、第五期の30代帝辛は一般に紂王として知られる、殷王朝最後の王さまでして、放蕩三昧の挙句、周王朝にとって代わられてしまう。ですが、文字の方は受け継がれていくことに。
殷末周初の時代には「金文」(青銅器に刻まれた文字)として残されたものが多くあるようでして、初期の特徴はふっくらとした字画であること。これが中期(王朝の安定期でしょうか)すこしづつ太さが均一化していくのだとか。号令が出たのかは詳らかではありませんが、文字の統一の萌芽なのかも。さりながら王朝末期ともなりますと、周王室の力が弱まって諸侯の自立化が進むに伴ない、それぞれ独特の文化の形成が後押しされていった、つまり文字も諸侯ごと、好みの書体に分化していったのでありましょうか。
そして、周王を支えてきた諸侯がそれぞれに自らの国を興し、文化もそして文字も国ごとに発展していくことになったのが春秋戦国時代。で、このばらばら状態を政治的にも文字的にも収めたのが秦の始皇帝であったと。いわゆる「篆書」を完成させて漢字の統一を図ったのだそうでありますよ。もっとも、統一前の秦では今日言う「大篆」が用いられていて、これを基に「小篆」という統一書体を作ったといいますから、自国文化優先なのは仕方無いところでしょうかね。
これが漢の時代になりますと、篆書の簡略化を目して「隷書」が発達していくのだそうです。王朝が安定すると文書作成が頻繁になって文字使用が増え、記念碑的に文字を刻むばかりでないことになると、簡便さの追求は必然の流れかと。文字の特徴としては、「横に広いかたちをとり、横画にハライ(波磔)をそなえる八分」という字体ということになるようで。
後漢の終り頃にはさらに簡便化が目指されたのでしょう、「隷書をすばやく書くことのできる補助書体」として「行書」「草書」が発達することに。ですが、今の感覚と同じに見てはことを誤るとは思いますが、確かに行書・草書は速筆を可能にしているものの、達筆過ぎて読めない…てなことにもなったかどうか。三国時代の魏では「楷書」に発達する最初期の字姿が現れるのだそうです。
そうはいっても、いわゆる魏晋南北朝の時代には、文字も北朝系と南朝系で差異が生じたようですね。北方から入り込んだ遊牧民族系に由来するような北朝系は力強さがポイントとは「なるほど」と。また、漢民族系が南の温暖な気候に逃れた南朝系は貴族的で優雅とは「これまたなるほど」のような。やがて、王朝は隋によって統一されるのですけれど、ここで北朝系、南朝系の文字が融合していったもしたようですなあ。このあたりから楷書の決定版が生まれていったのでしょうか。引き続く唐の時代、長く続いた王朝で統治範囲も広かったことで、楷書が基本形として根付くことになったのでもあろうかと。
かつて漢字にまつわる書物をあれこれ読む中で、講談社学芸文庫「日本語とはどういう言語か」でも見かけた話ながら、漢字の発展過程ではとにかく「楷書」があってそれを速筆せんがために「行書」「草書」が作られたと思ってしまうのは的外れということを、ここでまた改めて思い至ることになりましたですよ。
ところで全くの余談ながら、書道博物館の目の前には正岡子規の終の棲家となった子規庵があるのですなあ。あいにくと博物館を出たときには子規庵の閉館まで10分余りしかありませんでしたので、またそのうちに…と思うばかりでしたが。