住友コレクションを収めた泉屋博古館は京都にあるのだそうですが、

その東京・六本木の分館に行ってまいりました。

「金文-古代中国の文字-」が開催中でありましたよ。


「金文 中国古代の文字」展@泉屋博古館分館

そもコレクションの柱に中国古代青銅器があるようですけれど、

長年、別子銅山 の経営に携わってきた住友らしいところでもあろうかと。

そして、分館の開設は別子銅山開抗300年の記念事業でもあったということですので、

銅とは実に関わりが深いということになりますですねえ。


そして、そこで開催されている展覧会が「金文」、

つまりは青銅器に刻まれた文字というのですから、ここならではの企画と言えましょうか。


で、実のところは「古代中国の文字」というところに惹かれて、

漢字につながる源流のひとつでもあらんかと出かけてみたわけですが、

確かに「金文」は「漢字の原典」と紹介されていたものの、

金文よりも言葉として馴染みのある「甲骨文」との違いは

何に刻まれたかの違いでしかないようで。


つまりは亀甲や獣骨に刻まれていれば「甲骨文」であり、

青銅器に刻まれていれば「金文」であると。


ですから漢字の源流に関して新しく知るところがあるかもという思惑には違うものでしたが、

青銅器そのものに刻まれた精緻な装飾に目を向けるという点では新たな気付きになった、

とまあ、そのように思うところなのでありますよ。


古代中国で元来祭祀に使われたと想像されている青銅器には

そうした性格からもさまざまな装飾が施されておりましたけれど、

例えば日本の縄文土器が装飾性に富んでいる反面、

弥生土器はいささか実用一点張りといったところがある。

なにやら、中国青銅器の歴史にもそんなことが窺えたような。


展示は古いところから始まり、

最初は中国・商王朝(これもかつては殷といっていたような)時代に鋳造されたもので、

その後は西周王朝、春秋戦国、秦漢時代以降のものが並んでいますけれど、

ことにその装飾の精緻さで目を奪われたのが商王朝のものだったのですから。


後代になればなるほど技術的には進むものと思うところながら、

模様としては大味な方へと向かったのはどうしたことなのでありましょうねえ。


しかし、先に文字を「刻む」という言い方をしましたですが、

「刻む」といってはあたかも出来上がった青銅器に

後から文字入れしたかのようにも思ってしまうかも。

されど、実際には他の装飾と同様に、文字もまた予め鋳型をもとに鋳込んであるのですなあ。


これがいったいどうやって作られたのか、現代でも再現は難しいらしく、

今回の展示にあたっては泉屋博古館が鋳造工房に頼んで再現を試みてもらったと。

このプロセスも解説されていましたが、実に実に手間がかかるものであるような。


なにしろ文字の刻まれている場所というのが、よりにもよって深い器の底であったり、

把手と本体の間の部分であったりと、後から刻むにしても面倒な部位なのですよね。

つくづくよく作ったなあという気がします。


ところで、文字としての「金文」に着目しますと、

周王朝が衰退して春秋戦国の時代を迎えて字形にも地域差が生まれたようで。

「黄河中流域では、やや縦長で均整の取れた直線的な文字」が使われ、

「長江下流域では非常に装飾性の高い曲線的な文字」が使われたのだとか。


こうした地域差が拭い去られるのは、秦が戦国の世を制したこと。

始皇帝は度量衡の統一(そのことが青銅器に文字として刻まれていたりする)のみならず、

文字の統一も実施したわけで、中央集権の政策のひとつだったのでありましょう。

それが現在の漢字に繋がってもいるのでしょうなあ。


とまあ、話はあちこちしましたですが、なかなかに興味深いものでありましたよ。

折しもこの展覧会が終了すると、泉屋博古館分館では大改修工事が始まり、

およそ2年にわたって休館となるそうな。

今の姿は見おさめというタイミングだったのでありました。