宮城県石巻市にある慶長使節船ミュージアム(サン・ファン館)を訪ねてみたわけですが、使節を送り出した伊達政宗が紹介された後には、いよいよ使節そのもののお話となってまいりますよ。

 

 

まずは、使節派遣の背景として伊達政宗の思惑のほどが示されておりましたなあ。外国との交易が富をもたらしているものの、拠点はもっぱら西日本に置かれていて、東北の地はおこぼれに預かる程度。それならば、いっそ仙台から太平洋を越えて外国と直接交易する道を探ろうではないか!とは、政宗らしい意気軒昂さかと。

 

 

ただ、日本から見て太平洋の向こうとなりますと「相手はアメリカか?!」とも思うところながら、使節の出航する慶長十八年(1613年)当時、アメリカ合衆国は建国前であるのはもちろん、東海岸にメイフラワー号が到達するよりもさらに前なのですな。むしろ、その頃に相手をするに足るのはメキシコ(スペイン副王領とされてヌエバ・エスパーニャと呼ばれたと)だったわけですね、要するに間接的にスペイン世界帝国と直接交易をしようと。

 

ところで、そんな政宗の野望が実現に向かうにはとにもかくにもおおきな船が必要で、造船やらその他もろもろの準備やらを手がけておりました慶長十六年(1611年)十二月二日、慶長奥州地震(推定規模はM8.1とか)による大津波が仙台伊達藩領含む東北沿岸部を襲ったのだそうです。解説パネルには、外国人から見た大津波のようすが、こんなふうに紹介されておりましたよ。

仙台領内の港湾調査をしていたビスカイノの「金銀島探検報告」には、越喜来湾(岩手県大船渡市)で体験した津波のようすが、「大きな破壊力を伴って村に浸水し、家や稲わらの山は水上を歩くように流れて、大混乱となった」と記されています。

ちなみにセバスティアン・ビスカイノはスペインの探検家ですけれど、おいそれと外国人が日本の港湾調査などをできるはずもなく、当然にして幕府、徳川家康の承諾の下で行っていたのでしょう。かつてマルコ・ポーロが残した「ジパング」の記録から東アジアに眠る金銀を探し求めていたのか(「金銀島探検報告」とはストレートなタイトルですな)、スペインも日本に相当な関心があったということになりますですね。

 

静岡の久能山東照宮には、スペイン国王から家康に贈られたという洋式時計が残されておりますが、この時計を持って来たのがビスカイノであったのであるそうな。このビスカイノはやがて慶長遣欧使節の一団とともに帰国するのだそうです。

 

と、かような国難に晒されつつも使節派遣計画は続けられるわけでして、「造船はヒト・モノ・カネが動く大きな事業であり、被災地の復興にも役立ったと考えられます」と、解説パネルに。奇しくも慶長奥州地震の400年後の2011年、東日本大震災で復元船サン・ファン・バウティスタ号が被災することになるとは…ですなあ。

 

ですが、そうはいっても仙台伊達藩ばかりで事を成すのは難しいところで、造船にあたって幕府や外国人の協力があったことが史料からも窺えるようですね。解説にはこのように。

政宗は、幕府と貿易交渉をしていたフランシスコ会の宣教師ソテロとメキシコ副王の使者ビスカイノに、メキシコと貿易がしたいと伝え、造船事業を進めました。造船事業には幕府船手奉行の向井将監が協力し、洋式帆船建造の経験がある船大工が派遣されています。ビスカイノ一行のスペイン人船大工らも手助けしました。幕府の外交顧問になっていたイギリス人航海士ウィリアム・アダムス(三浦按針)も協力しています。当時のスペイン政府の記録には、ポルトガル人船大工が船を建造したともあります。

ということで、慶長遣欧使節 七人の立役者はこの面々になるということでありますよ。

 

 

右端にいるのは徳川家康。政宗の望むスペインとの直接貿易交渉に期待する面はあるも、キリスト教布教を受け入れる点はむしろ避けたい思いが強く、後々これが使節団の交渉の成否に関わるわけですが、準備段階では向井将監や三浦按針を通じて援助の手を差し伸べるのですな。奥に引っ込んだ左隣が向井将監になります。

 

向井のお隣がスペイン人宣教師のルイス・ソテロでして家康・政宗それぞれに直接交易を勧めた人物ですが、彼にとっては貿易とキリスト教布教はセットであって、事が成ってさらに宣教師が送られてくるようになれば自らは日本の教区の司教に任じてもらう野心を抱いていたのですなあ、いやはや。

 

さらに、支倉常長(使節団で日本側の責任者ですな)、伊達政宗、ビスカイノと続いて、左端の後ろ側にいるのが後藤寿庵。伊達家の家臣ながら熱心なキリシタンで、周辺に信者を増やしたりもしていて、一途な信仰心は遣欧使節に宣教師派遣という成果を期待していたようでもありますなあ。

 

どうも端から思惑が錯綜気味な中、従者や水夫なども含めた総勢180名余りの使節団を乗せたサン・ファン・バウティスタ号は、慶長十八年九月十五日(新暦では1613年10月28日)、牡鹿半島の月浦(つきのうら)を出航していく…という再現映像でもってミュージアムのロビー展示は終了となります。

 

 

「ここに至るも、まだロビーしか見ていないのであるか!」と思われましょうが、使節の先行きは決して平穏ではないわけで、この先の展開を展示室の方で見て行くといたしましょうね。ですので、話はもそっと続いてまいります。