連日のコンサートとなりましたが、読響の演奏会に行ってきたのですね。いつも会場となっている東京芸術劇場が改修工事に入るということで、今年後半と翌2025年の前半は東京オペラシティが会場に。確か数年前(といって、10年以上前でしょうか)にも東京芸術劇場では改修工事があって、エントランスロビーの中央から5階にある大ホールへと直接につながっていた頂戴なエスカレータが撤去され、壁沿いの2段階エスカレータに代わったという大きな変化がありましたですが、はたして今回の改修ではどんなふうになりましょうねえ。

 

ともあれ、演奏会の方はフランスの指揮者、ジャン=クロード・カサドシュ登場…ということでしたが、寡聞にしてその名を知らず。カサドシュというと、往年のピアニストを思い出すばかりながら、かのピアニストの甥っ子が今回の指揮者であったようですな。そうは言っても、伯父さんが1899年生まれとなりますと、甥っ子の方もそれ相応の年齢を重ねているわけで、1935年生まれと言いますからまもなく89歳になるそうでありますよ。

 

 

ということで、フランス音楽界の長老登場とも言うべきところだったわけですが、プローブストという現代作曲家の「群雲」(日本初演)、ラヴェルのピアノ協奏曲、そしてベルリオーズの幻想交響曲と並ぶプログラムはフランス音楽尽くし。それだけに、カサドシュ御大には自家薬籠中の作品なのでしょうけれど、それにしても実にきらびやかであり、かつ幻想に至ってはなんとまあ重量級の、雄渾な演奏であったことか。有名な「断頭台への行進」などは死刑宣告を受けた者というよりも王侯貴族の凱旋かと思ってしまうようなところでもありましたですよ。

 

かつては指揮者が年を重ねると演奏が長くなる(ともすると冗長になる)てなことが言われたりもしましたが、N響にたびたび登場する、現役最高齢とも言われるヘルベルト・ブロムシュテットの最近の演奏(生でなくして、Eテレ『クラシック音楽館』を通じてですが)を聴いておりましても、(指揮ぶりはともかくも)若々しい曲作りをするものであるなあと感心させられたりもして、どうやら人生100年時代などとも言われる世の中では、ひと頃までのおじいさん然とした演奏に入り込んでしまうこともない(そうなるようであれば、引退してしまう?)のであるかと改めて。

 

同様に、今回のカサドシュの演奏もライブらしい熱がホールを取り巻く演奏で、年齢などはどこへやらの印象。ただ、カーテンコールに応えてステージに出入りする際、指揮台の上り下りにちょいと躓くことがあって、自身それを気恥ずかしく思ったのか、何度も上り下りするときにわざわざ足を高く挙げてどすんと降ろすという、客席からもそれと判るパフォーマンスに及んでいた、そのこと自体、多少身体にガタが来ているにせよ、老け込んでいないという気概の証でもあったような。ある意味、気持ちに余裕があるわけで大したもんだなあ…と、年齢的にはまだまだだいぶ年下ながら思ったものでありますよ。

 

かつて老齢の指揮者が振ると曲が長くなると言われた背景には、円熟の境地などという側面もあったかもしれませんが、現実的に体力の衰えから適度は速さで曲を進められないこということもあったであろうと。どうやらブロムシュテットやカサドシュには差し当たり(といって相当な年齢ですが)無縁なのかもしれませんですね。

 

ところで幻想交響曲に関して、しばらく前に読んだ『19世紀イタリア・フランス音楽史』の中にはこんな記載がありましたなあ。ちと長いですが、ここに引いておくといたしましょう。

この交響曲の設計は、明らかに演劇を意識したものである。初版楽譜の巻頭にある標題のなかで作曲家が宣言していることによれば、「作曲家は、とある芸術家の人生におけるさまざまな「状況」を、それに音楽的なところがある限り、詳細に語ろうとした。この器楽による演劇の筋立ては、言葉という助力を持たないのであるから、あらかじめ提示されねばならない。したがって、以下の標題は、オペラの地の台詞としてみなされるべきであり、楽曲を導いて、その性格と表現を正当化する」(おそらくは、この言葉が解釈を狭めてしまう可能性を心配して、一八五五年に標題の最終バージョンでは、ベルリオーズはこのはしがきを取ってしまって、その代わりこの交響曲が「あらゆる演劇的な意図から独立して、それ自体が音楽的な面白みを提供する」ことができるようにという期待を表明している)。

今でも、作品の構想となっている演劇的要素、筋立てがかなり意識されて紹介される幻想交響曲ですけれど、音楽史の授業などで標題音楽のサンプルとして扱われることも多いところながら、その実、ベルリオーズ自身は筋立て理解に直結してしまう言葉を廃して「それ自体(曲自体)が音楽的な面白みを提供する」ものとして受け止められることを期待していたのですなあ。今回の演奏はそんな作曲者の期待に適うものであったのではなろうかと思ったものでありましたよ。