山形県尾花沢市に清風、芭蕉歴史資料館を訪ねたわけですけれど、展示を見終えて資料館を立ち去るにあたり、館内で入手した「芭蕉10泊のまち 尾花沢」という『おくのほそ道』所縁の場所の案内マップを取り出した次第。観光案内所にも置かれてあるといいのに…ですけれど、ともあれバスの待合所に戻る道すがら、これを手に尾花沢の町なかを少々ゆらりと。
まずは羽州街道に面する資料館の南側角をちょいと入ったところ、松尾芭蕉が元禄二年(1689年)に訪ねた尾花沢の豪商・鈴木清風の屋敷跡になります。といっても、今や駐車場の前に解説板がぽつんとあるだけですけれどね。
と、資料館のところでは触れるのを失念したですが、俳諧を通じて旧知であった鈴木清風を訪ねて尾花沢に十泊したという芭蕉、この間ずっと清風の屋敷でやっかいになっていたのではないのですなあ。「紅花大尽」清風の屋敷なれば、当然にして客間の用意ができないはずもないところながら、清風の配慮は気兼ねなく芭蕉にのんびり過ごしてもらいたいということ。ですので、わざわざ徒歩数分の寺に宿所を設けたという。心配りですなあ。
で、宿所に当てられたのがこちらの養泉寺という天台宗のお寺さん…となりますと、山寺を開いた慈覚大師と関係が?と思いますですねえ。山形県公式観光ガイド「やまがたへの旅」には「慈覚大師がこの地方を訪れた際、害虫の被害で悩む農民の窮地を知り、その駆除を祈願して観世音を安置した」のがそもそもと紹介されておりましたよ。
訪ねたときには足場が組まれていて、どうやら改修中であるようすの本堂は、残念ながら明治28年(1895年)の大火の後に再建されたものとか。芭蕉の寝起きした旧本堂は失われてしまったということですが、ただ、左手前に見えている井戸は類焼を免れたと。
そうとなれば、この井戸を芭蕉も使った…かもしれないとあって、人呼んで「芭蕉ゆかりの井戸」とされるばかりか、「この井戸水をノブと、和歌や俳句が上達するという伝えもまります」とは、俳聖にあやかりたい気持ちの表れなのでしょうなあ。
こちらは境内の傍らにあります「涼し塚」と呼ばれる句碑が建屋に囲われていますけれど、芭蕉がこの地で詠んだ「涼しさを我が宿にしてねまる也」という句が刻まれているところから「涼し塚」と。句の印象としては、清風の思惑どおりに芭蕉が寛いでいるようすが偲ばれますですねえ。
そして境内にはもうひとつ、昭和63年(1988年)と比較的最近(?)に建てられた碑もありました。先ほどの「涼しさを…」の芭蕉の句を発句として清風や曾良らが詠み交わした連句が刻まれておりましたよ。
とまあ、そんな芭蕉ゆかりの養泉寺の近くに、「芭蕉もここからの眺望を見た(であろう)」というビューポイントがあると道標がありましたので、門前を過ぎた坂道を下って行ってみたのですな。折しも、東北ながら暑さ厳しきポテンシャル十分な山形にあって、いやはやカンカン照りの最中、戻ってくる時の登り返しが気になりましたですが、近所のおばさんから「どっから来たの?」と声を掛けられ、「東京です」と答えた手前、都会者の軟弱ぶりを露わにしてなるものか(実際のところは運動不足をこじらせている身ですが)と、ちと頑張ってしまいましたですよ(結果、大した坂道ではなかったという…)。
いやあ、たった今まで住宅の立ち並ぶ町なかにいましたのに、際がちょっとした崖のようになっていて、その下は一面に広がる農地であったとは。遮るものが何もありませんので、遠くまで見通せるのでして、方向的におそらく正面奥の山は鳥海山ではなかろうかと。芭蕉が宿泊した養泉寺はすぐ裏手の高まりの上ですので、やっぱり芭蕉もこの風景を見たのではないでしょうかねえ。
尾花沢到着以前に、江戸の杉山杉風に宛ててこの先、庄内や象潟の旅はどうしたものか…などという手紙を書き送っていたとは先に触れましたですが、尾花沢連泊で旅の疲れを癒しつつ、この遠望を眺めたならば、そりゃあ庄内へ、象潟へと向かう気になったことでしょうなあ。